「自然」と「再現性」について 6509
昨日は大雨の影響で予定されていた会合等が中止に。自然の猛威を改めて感じるこの頃です。
先日、「磯田道史と日本史を語ろう 達人たちと探る歴史の秘密」(文春新書)を読みました。歴史家・磯田氏と出口治明氏、半藤一利氏、堺屋太一氏など各界の方との対談。読み応えがありました。その中でも、解剖学者の養老孟子氏とのやり取りが秀逸でした。
「都会の人間は田舎に「参勤交代」せよ」との見出しから。
磯田 「話をまとめると、まず中世までリアリズムの時代が続いたが、近世の江戸時代の初頭から脳化社会というシンボルを重要視する理念的な社会が生まれた。太平洋戦争の敗戦でリアルなモノづくりの時代へ移りますが、現代が昔と異なるのは自然と離れたところでモノづくりをしている点ですね。」
養老 「当然、自然に対する見直しが起こってくるはずですが、まったく頼りない。現在、日本の自然を見直す仕事をしているのは官でなく完全な民です。好きな人が勝ってにやっている状況です。全部民間でやるべきだという考え方もありますが、国が自然を動かすと大きいですからね。まさに江戸時代の殿様のように自然を一気に変えることができます。
自然は基本的にデリケートなシステムです。しかし、そのシステムは非常に単純なもので壊せます。自然を構成する人間だって、殺すのにはナイフ1本で十分ですが、ナイフは人間に比べたらまったく単純な構造です。鉄砲の玉もそうでしょう。殺人とは、人が人を殺すことですが、理科的に考えると、人が人を殺すのは容易ではない。つまり素手で殺し合いをすれば、相手は逃げもするし抵抗もする。よほど力の差がないとできないですね。
ところが、ナイフのような非常に単純な道具を使えば、人間はころっと死んでしまう。いくらホンダが「アシモ」を作るのに膨大なお金と時間をかけても、それよりはるかに複雑にできた人間をぶっ壊すのは、ナイフ1本で事足りるんですよ。
この価値観の落差こそが、本来人間を殺してはいけない理由ですよね。それは結局、システムをいかに尊重するかです。人間は月まで飛ぶロケットをある意味簡単に作れますが、ハエや蚊を作ることはできない。同じ飛ぶにしても、システムとしてのハエや蚊の高度さは、ロケットなど問題ではないのです。「お前、蚊を一匹潰したな。代わりに蚊を一匹つくってみな」と言われたら完全にお手上げですよね」(中略)
養老 「こうしたシステム論を19世紀に後半から科学は無視してきました。学者が論文ばかり書いてきたせいです。生物に関する論文をいくら集めても生物にはなりません。システムを情報に変換するのが学者の仕事ですが、システムは複雑なものですから自分では作れない。工学的に言えば、同じモノがつくれた時が、最後に「わかった」という時ですね」
磯田 「自ら作ったものが同じように生きて動いて、初めて生き物がわかったといえるわけですね。「再現性」が科学においては重要なのでしょうか」
養老 「その通りです。生物に関していえば同じものはつくれません。そう考えれば、およそ自然を考えなしに壊していくことが間違いだとわかるはずです。ある高校生が「豚などの家畜を殺して食べているのに、どうして人間を殺してはいけないんだ」という質問をしたんですが、その答えは「豚の再生産は家畜というかたちで確保されているが、人間はそうではない」ということになります」
磯田 人知でもって再生不可能なものを壊すことは、よほど考えなければならない。それは自然破壊をしてはならないことのひとつの理由になりますよね。」
台風もそうですが、年々威力を増す自然の猛威。すでに来年が気になります。
長年にわたり、先のことを考えず、自然環境を破壊し、変化させてきた人間。
その結果、人間が生きていけない環境になってきたように感じます。
自然の利用は、「再現性」の確保が前提、との旨の指摘に唸りました。
自分で責任をとれることはやっていい、とも取れます。
環境破壊も、戦争も、人間の意志で始まるもの。
人間が、自身を自然の一部と考えるか。自然の支配者と考えるか。
共存を選ぶか。利己的な行動を続けるか。
大人の対応が求めらているように感じます。