昨日は来週開催される公明党五大市政策研究会の打合せ。その後、市民相談の現場。夜は地元の会合へ。
先日、マーク・トウェイン著「不思議な少年」を読みました。その昔、アニメとなった同氏の「トムソーヤの冒険」を毎週楽しみにしていました。
米国のユーモア作家、楽天主義を代表するとされ、「トムソーヤの冒険」「ハックルベリフィンの冒険」などで有名なマーク・トウェイン。しかし、晩年は真逆のペニシズム(悲観主義)、暗い人間不信に彩られます。「不思議な少年」はその時期の代表作とされています。
1890年代に訪れた米国の西部開拓時代の終わりといった環境の変化、また彼の周辺に続いた不幸がペニシズムとなった原因ともされ、本作では「人間とは何か」「人間存在の機械的決定論(それぞれの人生の結末は生まれたときから決まっている)」を表現しています。
オーストリアの田舎にいた3人の少年。その彼らの前にサタンが現れ、不思議な現象を次々と起こしていく。その中で人間の欲望をあぶりだし、醜さを表現していきます。
サタンは少年に言います。「ぼくは人間ってものをよく知っている。羊と同じなんだ。いつも少数者に支配される。多数に支配されるなんてことは、まずない。いや、絶対にないと言った方がいいかもしれんな。感情も信念も抑えて、とにかく一番声の大きな一握りの人間についていく。声の大きな、その一握りの人間というのが、正しいこともあれば、間違っていることもある。
だが、そんなことはどうだっていいんで、とにかく大衆はそれについていくのだ。
元々大多数の人間ってものはね、未開人にしろ、文明人にしろ、腹の底は案外優しいものなんで、人を苦しめるなんて、殆どできやしないんだよ。
だが、それがだよ、攻撃的で、全く情け知らずの少数者の前に出ると、そういう自分を出し切る勇気がないんだな。考えてもごらんよ。もともとは温かい心の持ち主の人間同士がね、お互いスパイし合っては、心にもないひどい悪事に、いわば忠義立てして手を貸してしまうんだな。わざわざ心がけてだよ。
その辺、ぼくはよく知っているから言うんだが、ずっと昔はほんのわずかな狂信者どもが、はじめて魔女狩りなんて馬鹿げたことを煽り出した時にもね、まず100人のうちの99人までは猛烈に反対した。そして今でもだ、ずいぶんと長くつまらん偏見やバカげた教えが続けられてきているわけだが、それでも、本当に心から魔女狩りをやろうなんて考えるものは、せいぜい20人に1人くらいだろうな。そのくせ、表面だけを見ると、まるですべての人間が魔女を憎み、殺したがっているかのように見える。
だが、いつの日にかだよ、ごく一握りの人間でいいから、もし魔女の味方になって立ち上がり、大声でわめきたてるとする。いや、大きな声の持ち主で、勇気と決意のある人間なら、一人だっていい。反対を叫びだせばね、おそらく1週間もすれば、羊の群れは1頭残らず回れ右をして、その男のあとについていくに決まっている。魔女狩りなんて、あっという間になくなる。
君主制も、貴族政治も、宗教も、みんな君たち人間のもつ大きな性格上の欠陥、つまり、みんながその隣人を信用せず、安全のためか、気休めのためか、それは知らんが、とにかく他人によく思われたいという欲望、それだけを根拠に成り立っているんだよ。そりゃそうした制度は、永久に続くだろうさ。つづくどころか、いよいよ栄え、いよいよ君たちを圧迫し、侮辱し、堕落させることだろうよ。
だが、それは君たちが相変わらず、いつまでも少数者の奴隷になっているという、ただそれだけのことが原因なんだな。そうした制度に人民の大多数が心の底から信服している国なんて、決してなかったからね。」
少年が言い返す「羊呼ばわりされるなど、私としてはおもしろくなかった。そこで私はいってやった。『羊なんかじゃないつもりだよ』と。」
サタン「いや、立派な羊なんだよ。しかも、仔羊なんだ」「例えば戦争の時など見ろ。全く羊そっくりじゃないか。馬鹿馬鹿しい!」「戦争を煽る奴なんてのに、正しい人間、立派な人間なんてのは、いまだかつて一人としていなかった。僕は100万年後だって見通せるが、この原則の外れるなんてことはまずあるまいね。」
「いつもきまって一握りの連中が、戦争、戦争と大声で叫ぶ。すると、さすがに教会なども、はじめのうちこそ用心深く反対を言う。それから国民の大多数もだ。鋭い目を眠そうにこすりながら、なぜ戦争などしなければならないのか、懸命になって考えてみる。そして、心から腹を立てて叫ぶさ、『不正の戦争、汚い戦争だ。そんな戦争必要ない』ってね。すると、また例の一握りの連中が、いっそうわめきたてる。」
「それは長くは続かないね。なにしろ扇動屋の方がはるかに声が大きいんだから。そして、聞く者もいなくなり、人気も落ちてしまうというわけだよ。すると間もなく奇妙なことが始まるのだよ。まず戦争反対の弁士たちは石をもって演壇を追われる。そして狂暴になった群衆の手で言論の自由は完全にくびり殺されてしまう」
「ところが面白いのはね、その凶暴な連中というのが、実は心の底では相変わらず石をもて追われた弁士たちと、まったく考えは同じなんだな。ただそれを口に出して言う勇気がないだけさ。そしてそうなるともう全国民、そう教会までも含めただが、それらがいっせいに戦争、戦争と叫びだす。そして、あえて口を開く正義の士でもいようものなら、たちまち蛮声を張り上げて、襲い掛かるわけだね。まもなく、こうした人々も沈黙してしまう。あとは政治家どもが安価な嘘をでっちあげるだけさ」
「そのうちには、正義の戦争ででもあるかのように信じ込んでしまい、誠に奇怪な自己欺瞞だが、そのあとではじめて、ぐっすり安眠を神に感謝するわけだな」
人としての道を求める著者の何かを感じます。
読み進めるうちに西洋的な著者の命の捉え方と、東洋的なものとの違いのようなものも感じました。
夏の一冊に、よろしければどうぞ。