「ドライブ・マイ・カー」について 5563
我が家のポスターを三浦のぶひろ議員と山口代表の連記に貼り替えました。夏の勝利に向けて動きが続きます。
埼玉県で発生した立てこもり事件。医師が猟銃で打たれ死亡。犯人は「母が死んでしまい、この先いいことがないと思った。自殺しようと考え、自分1人だけではなく医師やクリニックの人を殺そうと思った」と供述。訪問看護師の約半数が現場で暴力を経験。米国では2人で訪問し、うち1人は警察官か警備員とのことです。他方、12月に大阪市北区の心療内科で起きた放火殺人事件。25人が死亡。
以前、精神科医の片田珠美氏が新聞への寄稿で、復讐願望が強いと、「一人で死んでたまるか」という心境になりやすく、できるだけ多くの人々を巻き添えにして、拡大自殺を図ろうとする。このような復讐願望の根底には、自分の人生がうまくいかないのは「他人のせい」「社会のせい」と考える他責的傾向が潜んでいることが多い。当然「自分だけが割を食っている」という被害者意識も強い。
他責的傾向と被害者意識が強いと「なぜ自分だけがこんな目にあわなければならないんだ」と考えやすい。だから多くの人々の命を奪う無差別大量殺人であったも、本人の思考回路の中では、正当化されてしまう。
被害者意識が強く、他人のせいと考える人が増えており、今回の事件の模倣犯が出るのではないかと危惧している。」と指摘されていました。
まだ見ていないのですが、最近話題の映画「ドライブ・マイ・カー」は「拡大自殺」を描写しているとか。
先日、日経新聞コラム「春秋」が記していました。
「昨年のカンヌ映画祭に続き米国で数々の批評家賞を受賞、3月に決まる米アカデミー賞でも有力候補という。濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」を遅ればせながら映画館で見た。劇中劇の形で主人公の心情を代弁する舞台「ワーニャ伯父さん」の台詞(せりふ)が心にしみた。
「泡と消えた人生!」「ああ、気が狂いそうだ……」「母さん、ぼくはもうダメです」。チェーホフの名戯曲には、人生を棒に振った中年男の悔恨と絶望の嘆きがあふれている。ヤケを起こして正気をなくし、ついには拳銃を振り回す――。いつしかその姿はスクリーンを抜け出し、現代の光景と二重写しになって見えた。
「人生を終わらせてほしい」「死刑にしてくれ」。昨年来、いくたび同様の叫びを聞いたことか。無関係な人々を巻き込んで、自分のみならず他人の人生をも終わらせようとするおぞましい犯罪。許せない、とただ憤っても「拡大自殺」と今風の言葉でくくってみても、彼らが抱える闇を理解したことにはならないだろう。
せめて絶望という病に寄り添う言葉はないものか。ワーニャには心優しい姪(めい)が語りかける。「生きていきましょう。長い長い日々を、長い夜を生き抜きましょう」(浦雅春訳)。映画の主人公には悲しみを潜(くぐ)った人との交感がある。もちろん人生は映画のようにいくまい。それでも、と寒空の下ドラマの余韻に身を沈めた。」
人の命は今の一生で終わるのかどうか。宿命を変えることができるのか。「生老病死」など自分に力ではどうしようもない宿命にさいななまれる人生。
人は生まれながらに違いがあり、生きていく中で現れる違いもある。自分らしくと言われても、「なぜ自分だけが」と思う心。
乗り越える力、宿命を変える力、外でなく自分見つめ変革させる力。そして、寄り添う力。
それが信仰の力かと思います。