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公明党 横浜市会議員(青葉区) 行田朝仁 (ぎょうた ともひと)

トンカツに「キャベツ」の理由について 5497

未分類 / 2021年11月27日

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昨日は紙類の回収リサイクルで地域を支える企業のお声を伺った後、神奈川県宅地建物取引業協会の皆様との政策懇談会。現場には課題があり、声があります。大事なことは「市民生活にとってどうなのか」。遠いどこかで考える前に、現場に立って、声を聞くことが大変重要だと思います。

ランチ時、たまに市役所近くのとんかつチェーン「さくら」に行きます。このお店はキャベツが真ん中。いつもお代わりします。

先日、日経新聞「なるどルーツ調査隊」が「トンカツの付け合わせ、なぜキャベツ?」と題して記していました。考えてもみませんでした。

「すしや天ぷらと並んで日本食の代表格ともいえるトンカツ。付け合わせといえば生のキャベツが定番だ。だが最初から生キャベツだったわけではない。ルーツを探ると、日本の食文化の懐の深さが見えてきた。

トンカツを定義するなら「豚肉にパン粉などの衣をつけて油で揚げたもの」だろうか。この調理法を編み出した店は定説がある。1895(明治28)年に東京・銀座で創業した煉瓦(れんが)亭だ。

「トンカツのルーツといわれるポークカツレツは、試行錯誤の末、生まれたんです」。創業者のひ孫で4代目の木田浩一朗さんが教えてくれた。創業時からのメニューではなく、当初は子牛肉に乾燥パン粉をまぶして油で揚げ焼きにした「コートレット」だった。ポークカツレツが生まれたのは4年後だ。その間、何があったのか。

「外国人居留地の廃止と世界情勢の変化」と木田さんは語る。日清戦争などで情勢が緊迫し、軍隊優先の牛肉は価格が高騰。99年に築地にあった居留地がなくなり、外国人好みの味が日本人には「しつこい」といわれるようになった。

対策を迫られた初代の木田元次郎さんが思いついたのが、天ぷらの応用だ。ビーフをポークに変え、天ぷら鍋で揚げた。毎日パンを仕入れ、調理直前におろし金ですった。カツレツは人気メニューとなった。

では付け合わせにキャベツを添えたのはいつ、どの店だったのか。木田さんに尋ねると「それも初代が考案したもの」だという。

時は1904~05年の日露戦争。若いコックが兵役に取られ、店は人手不足に陥った。少しでも省力化できないか。目を付けたのがそれまではゆでて提供していたキャベツだった。生で食べられ、あらかじめ切っておける。ざく切りにして添えたところ「さっぱりする」と大受け。評判は他店にも伝わり、生キャベツが定番化していった。

日本には古来、生食文化があった。和食文化学会会長で国士舘大学名誉教授の原田信男さんによると、魏志倭人伝に「倭の地は温暖にして、冬も夏も生菜を食らう」との記述がある。生菜が何を指すのか定かではないが原田さんは「食べ物を生で食べる文化は世界的にも珍しい」と指摘する。

ただ、生野菜を食べる習慣はまだ一般的ではなかった。1925(大正14)年にマヨネーズの製造を始めたキユーピーによると、当時の広告には「魚肉や野菜のゆでたの」に用いるとあった。32年の広告には「新鮮な野菜サラダを召上れ」とあり、この頃にはサラダが広がり始めていたとうかがえる。付け合わせの生キャベツがサラダ普及に一役買ったのかもしれない。」

生野菜を食べるようになったのは約100年前からということなのかも知れません。

その昔、マレーシアに留学していた時、マレー人から「肉、魚、野菜と生食に抵抗のない珍しい民族だ」と言われました。その友人は日本語を勉強していたのですが、「納豆を食べたら日本の勉強になるよ」といって紹介したら、涙を浮かべながら食べていたのを思い出します。

今や日本食は「世界のヘルシーフード」。サンマなど需要の拡大で食べられなくなるのは困りますが、世界の多くの人々に日本の食文化が広がって、人と人を繋いでいけばと思います。