昨日、地元で不動産業をされている方からお話を伺っていると、匿名の投稿が話題に。「一体、誰なんでしょうね。迷惑ですよ。」「言いたいことがあるなら、面と向かって言えばいいのに」と抑えながら話されていました。匿名のいいところも理解しますが、誹謗中傷、他人に迷惑をかける、嫌なお思いをさせる匿名はやめた方がいいですし、厳しい対処が必要だと思います。
公明新聞「話し方レッスン」のコーナーで連載されているフリーアナウンサーの梶原しげるさんが、先日日経新聞での連載「しゃべくりテク」で、「松本人志さんの「匿名」金言に思う 中傷に走る心理」と題し、バランスのとれた、的を射た指摘をされていました。おもしろいのであっという間ですが、長文ですのでご都合に合わせてお読みください。
「ダウンタウンの松本人志さんが自身のツイッターに載せた「匿名は良い行ないをするときに使うのですよ」という金言に心を動かされた。インターネット上で横行する、匿名の書き手による誹謗(ひぼう)中傷を念頭に置いての発言だ。
実は直近のツイートではない。2015年に自身が書き込んだツイートの引用・再投稿だ。もともとの文章は「匿名で悪口書いてる人。。。匿名は良い行ないをするときに使うのですよ。。。」だそうだ。今回のリツイートでは「あらためて」という5文字を添えた。
5年を経て、このタイミングで再掲した理由は、直前に痛ましい出来事があったからだろう。ネットフリックスのリアリティー恋愛番組「テラスハウス」に出演していた、プロレスラーの木村花さんが死去したと、前日に伝えられていた。木村さんはネット上でたくさんの誹謗中傷を受けていたといわれる。
ツイッターをはじめとする交流サイト(SNS)では、感情的な言葉がしばしば飛び交う。本名を明かさない匿名の場合、正体を特定されにくい「安全圏」からの発言となるせいもあってか、とげとげしい物言いになりがちだ。ただ、SNSも広い意味では、言語を介した対人コミュニケーションであり、おのずと節度が求められる。
松本さんの言葉が広く共感を集めたのは、正体を隠して、背中から撃つかのような振る舞いへの不快感を、多くの人が共有しているからだろう。もちろん、名前を明らかにしていれば、何を言っても構わないわけではない。ただ、匿名の場合、無責任な「言いっぱなし」になりやすく、過去にもたくさんの被害を及ぼしてきた。
芸能人の「不倫」に関しても、ネットでの書き込みは批判のボルテージが上がりがちだ。行状が目に余るからといって、批判の言葉遣いが度を越してもいいということにはならない。「目には目を」式の考え方は、勝手なエスカレートを許してしまいやすい。
近ごろの事例では、アンジャッシュの渡部建さんへの批判が猛烈だった。報じられた行動を問題視するのは無理からぬところだが、「渡部たたき」の書き込みやコメントのなかには「レギュラー番組が10本を超えているのに」「あんなに素敵な妻がいながら」といった枕ことばにつなげて、「許せない」と憤るケースがみられた。
しかし、売れっ子だから、結婚しているからといった理由で、批判がブーストするのは、いささか奇妙に映る。確かに番組関係者・スポンサーなどに迷惑をかけ、パートナーに負担を強いる点では、考えが浅いといわれてもしかたがない。責任感や良識に欠けていたのは論を待たない。
■中傷にちらつく「引き下げ心理」
だが、恵まれた立場にあったから、口汚くののしっても構わないという論法は成り立たないだろう。イメージを裏切られたという腹立ちは分からないでもないが、その憤まんは過剰なけなし行為への免罪符にはなり得ない。著名人への批判を当然の権利であるかのように装う「有名税」という言葉も勝手ないいわけと映る。有名だからどんな批判も黙って耐えろというのは無理難題でしかないだろう。
批判的な書き込みの主は「迷惑の及んだ人たち」への配慮不足や、公共スペースの不適切な使い方を難じるのではなく、自分にとって許せないという「セルフ正義感」にすり替えて、憤りのボルテージを勝手に高めてはいないだろうか。その怒りが高揚感につながり、書き込みのトーンを荒ぶらせているようにもみえる。
心理学を学ぶなかで、悪口ばかり言いたがる人の心理メカニズムを教わったことがある。恩師は「引き下げ心理」という用語を使って、こういう「悪口大好きピープル」の心理を説明してくれた。
「引き下げ心理」とは、うらやましいとか勝てないと思い込んでいる相手の悪いところを見つけて、価値を引き下げることによって、自分と同じようなレベルに価値をおとしめようと考える心理を指す。背景にあるのは、現状への不満、自身に抱く劣等感だといわれる。
他人を引き下げる言動によって、ほんの一瞬だけ、「救われた気持ち」や「かりそめの優越感」を味わえるかもしれない。でも、その満足感や幸福感はつかの間のものだ。そもそもの原因である、現状への不満、自身に抱く劣等感が解決されていないからだ。
行き場のないフラストレーションは、さらにトーンの上がった攻撃に向かわせる。別のターゲットを探すこともあるだろう。こうして「文句言い」行動が続くわけだ。実際の心理メカニズムはもっと複雑だろうが、大まかな流れとしては納得できる説明のように思われる。
もっとも、仕組みが分かるだけであって、こういう振る舞いに理解や共感が可能なわけではない。むしろ、仕組みが分かると、かえって「他人に矛先を向けず、自分のなかで決着をつけてもらえないものか」という気持ちが強まる。繰り返し起きている、痛ましい出来事を思えば、なおさらだ。
■「斜に構える=格上、正しい」の思い込み
批判的な「口撃」の背後に見え隠れする心理としては、ゆがんだマウンティング(優位に立ちたがる)意識もあるようだ。「批判精神=インテリジェンスの表れ」という思い込みから、とにかく一言、けなしを加えたいという情動だ。
こういう「上から目線」の物言いでは、本人にとって、論点は大して重要ではない。むしろ、「言ってやった」という手柄のほうに価値が置かれている。だから、同意や賛成は最初から選択肢に入っていない。文句をつける、茶々を入れる、揚げ足をとるなど、様々な批判のバリエーションのうち、どれを選ぶかだけの話だ。くさす、ちゃかす、ひやかすなども、彼らが好んで使う手口だ。
「悪口を言うのが高等で、ほめるのはお追従だ」と、最初から決めてかかるのは、結論ありきの態度だ。主な目的が「自分を賢そうにみせる」なのだとすれば、これまた愚かしいことだと感じる。ひたすらあまのじゃくに徹するのは、見方を変えれば、批判相手の主張に動かされているともいえる。つまり、主体的に反論しているようにみえて、実は自分を失っているわけだ。
こうした「斜に構える」ような態度は、ビジネスシーンでも割とみかけることがある。会議の席で、建設的な提案に対して、「過去にもあった提案だ」「具体性を欠く」などと、とりあえずひとくさり注文を付けずにはいられない中間管理職は珍しくない。プランの中身を本気で吟味したいのではなく、「俺様は部長だ」と威張りたいがための難癖だ。「簡単に通さないほうが教育になる」と思い込んでいる管理職もしばしばいるから、ことはやっかいになる。
「ひたすら人の悪口を言う、足を引っ張る、相手をおとしめるという人は『I am not OK.』な人だ」――。カウンセリング心理学を教えていただいた、大学院時代の恩師、国分康孝先生の言葉だ。
国分先生は「人間には『I am OK.』な人もいれば、『I am not OK.』な人もいる」とおっしゃった。「I am OK.な人」とは、すなわち、自分を肯定できる人のことだ。自分は自分であることに納得し、自分のあるがままを受け入れ、幸せを享受する人は「I am OK.」な人であるというわけだ。
その一方で「I am not OK.な人」というのは、自分を受け入れられない人だ。自分を否定的にみる人でもある。自分を「だめ人間だ」と否定し、他者にケチをつけ、自分と同じレベルに引き下げることによって、自分の劣等感から目をそむけようとする人。こういう心理のことを、国分先生は「引き下げの心理」と呼んでいた。
中傷コメントを書き込むのは、誰かに認めてもらいたいと願う「承認欲求」が満たされていないことへの不満の裏返しだとみる人もいるようだ。しかし、たとえ、たくさんの中傷コメントを書き込んで、その反響が大きかったとしても、そもそも匿名だから、本人は直接的な承認を受けられるわけではない。書き込む際の仮名を通じての反響は得られるものの、必ずしも承認欲求を十分に満たすまでには至らないだろう。つまり、フラストレーションは収まらない。
同じ時間を過ごすなら、劣等感や承認欲求を和らげてくれるような過ごし方を選ぶほうがポジティブな結果につながりやすいだろう。だが、匿名の仮面を脱ぎ捨てた、リアルな行動には、失敗したり傷ついたりといったリスクが伴う。こういったリスクにおじけてしまうと、「安全圏」から出ていけない。出ていけない自分へのいらだちは、原因が自分だけにやるせない。
承認してもらうには、自分をある程度、さらけ出す「自己開示」が欠かせない。自分が何者であるかを、実名で示す行為だけに、匿名ゾーンからは不可能だ。その前段として自分と対面することも欠かせない。自分と向き合い、適度に折り合いをつけていけば、自らを受け入れる「I am OK.」の状態に近づきやすくなる。でも、自分から目を背けていると、不満の行き場を失いがちだ。
自己開示が進まず、自分と折り合いがつかないままの状態が続くと、自分とは逆に、実名でリスクを取り、名声や収入を得ている人を妬ましくみてしまいかねない。「私はうまくいかないのに」「本当はあなただって、別の顔があるのに」「おまえだけいい思いしやがって」などの感情がねじり合わされて、負のエネルギーが膨れ上がることもあるだろう。
大女優ですら晩年は自分の老いた姿を見たくなくて、鏡を遠ざけてしまうようになる人がいると聞く。自分とちゃんと向き合うのは、確かにしんどい。だからといって、先延ばしにしても、勝手に事情が好転するわけではない。ましてや他人をけなして、どうにかなるはずもなかろう。誰だって「匿名の自分」とはうまく向き合えないものだ。自分の名前を取り戻すしかない。
相手を好きだという気持ちも、愛を訴える自分の存在がはっきりしていないと、相手にうまく伝わらない。「I(私)」がぼやけると、「愛」も得にくい。憧れのロッカー、矢沢永吉さんはソロ歌手になって最初の曲で歌った。「I LOVE YOU,OK」と。全部が大文字で、声を大にして、「I(愛)」をさらけ出している。
私もむしゃくしゃしたときなど、ふと呪文のように自らに問うてみる。「今の自分は『I am OK.』か」と。何とも残念なことに、「not OK」なところもいっぱいあるが、「ま、いっか」と、ほどほどに自分と折り合いをつけている。」
中傷コメントを書き込む人が持つ「劣等感」や「承認欲求」。それを乗り越えるための「自己開示」の力。「なるほど」と思います。