安全・安心の横浜へ 「何を言ったかでなく、何をやったか!」

公明党 横浜市会議員(青葉区) 行田朝仁 (ぎょうた ともひと)

「謝罪という武士道」について 4863

未分類 / 2020年3月1日

IMG_0099 (3)昨日はサッカー協会打ち合わせの後、市民相談対応。新型コロナウイルスの影響で、各種イベントの中止、延期決定が続いています。運動する場が減っても健康への気遣いは大事です。

今回のような経験したことのない事態であっても、各種対策が遅滞なく、スムーズに進めばいいのですが、様々な声があります。そうした声も受け止めつつ、今は正確な情報と冷静な判断で、安全・安心のため事態の終息に向けて前に進んで頂きたいです。

過去を振り返ると、正確とされる情報、冷静な思考をもって判断したことが、その時は非難されたことも、後々「あれでよかった」と感じることがあります。例えば、国政で言えば「後期高齢者医療制度」「安保法制」など。従来からの変化には、その先に課題があったり、不安が生じたりしますが、人生と同じく、環境の変化に応じて、変化しなければならない時があります。

しかし、あの時の一歩を踏み出す勇気がなかったら、今どうなっていたかと思うと恐ろしいものがあります。環境の変化に耐えられないことと共に、当時の不安をぶつける、不満を煽る批判の先には、社会を守ることのできる「対案」がなかったからです。街の声を届けるのがマスコミの仕事だと言われればそうなのかも知れませんが、政治には責任が伴います。

間違えたものは謝る必要がありますが、まだ誤りというわけでもなければ、問題解決への具体な「対案」がない中で、政治的な思惑からか「問題だ」と大騒ぎする。目的は何か。公共の電波を使って「謝ってもらいたい」だけなのか。

先日、日経新聞「あすへの話題」に「謝罪という武士道」と題し作家の嵐山光三郎氏が寄稿されていました。

「月に1度はテレビでだれかが謝罪している。メーカーの社長、国会議員、各省庁の大臣、学校の校長、官僚、みなさん謝っている。謝り方にそれなりの格が出る。「自分は当事者ではないが、立場上頭を下げるのだ」という気持がちょっとでも見えると逆効果になる。謝罪会見は妙なもので、現場ではテレビのカメラに向って謝っている。カメラのむこうには世間という化物がいる。マッカな感情むきだしの世間は、意地悪く会社幹部を査定している。

頭を下げるきっかけが大切であって、責任者が、ナンタラ、カンタラ、と謝罪の弁を述べ、最後に「申しわけありませんでした」というところで一斉に頭を下げる。そのとき、頭の下げ方が揃(そろ)っていないと、見ているほうは「ダラケておるな」と腹をたてる。席に立つのは3人が基本で、ひとりぐらい後頭部がはげている人がいると、謝罪に深みが出て、効果的である。頭を下げるきっかけを、社長が、ハイと声をかけるわけにもいかず、アウンの呼吸で下げる。予行演習しているはずだ。

謝罪の言葉、表情、人格、貫禄、気迫、余情、頭を下げる角度、眼鏡、視線、ネクタイの色なども関与してくる。涙の謝罪で世間の同情を得ても、すぐぼろが出る。

いまの教育ママは、子に「あなたはテレビで謝罪会見するような立派な人になりなさい」と激励するらしい。「わたしの祖父なんか、テレビで3回謝ったんですよ」

人様の前で謝罪するのは、社会的名声が高い人でないと世間はすっきりとしないのです。企業武士道は、「社長は詫(わ)びることと見つけたり」。

よく海外のマスコミが日本人の謝罪について取り上げますが、彼らからすると日本社会独特。個人的には、日本のこういう島国的風潮は、あまり健康的でないようにも感じます。