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公明党 横浜市会議員(青葉区) 行田朝仁 (ぎょうた ともひと)

吉野家「私の履歴書」について 3606

未分類 / 2016年9月20日

DSC_0308昨日は市民相談対応等々。日頃から牛丼屋さんにはよくお世話になります。今月の日経新聞「私の履歴書」は、吉野家ホールディングス会長の安部修仁氏。連日楽しみにしながら拝見しています。

高校卒業後、「音楽で飯を食う」という志を抱き上京。バンド活動をしながら吉野家でバイト。そして社員に。12年後の1980(昭和55)年、事実上倒産。その重大な日に会社を無断欠勤。昼ごろ同僚からの電話で倒産を知る。彼には「嫌気がさしてバックレた」と話したが、本当は過労でぶっ倒れて床に伏せっていた。こうした下りからはじまる波乱万丈の履歴書。その後、様々な人との出会いの中、再建のリーダーとして社内をけん引、業績拡大を続ける。

会社更生法が申請された時、倒産イメージの払拭を求め、保全管理人が「再建セールをやってくれ」と言ったときのこと。乗り気になれず、「多くのお客さんをさばくための人員を確保できない。これだから素人は困るよ」とこぼした安倍氏。「すると管理人は「どうすれば可能になるのか」と聞いてきた。この言葉にハッとした。やろうともせず、できない理由ばかりをあげつらう自分を恥じた。気を入れ替える。「今、辞めたら“進駐軍”(不動産会社)だったヤツらを喜ばせるだけだ」。離職を考える仲間に声を掛ける。「『吉野家に残ってよかった』と言えるようにしよう」その後、一週間のセールは大成功。

 

92年に42歳で社長就任。昨日の履歴書はセゾンからの支援の様子を描かれていました。

「危機の度に向けられる言葉がある。「単品経営だからリスク管理ができていない」。だが、それは間違っている。単品だから品質を極め、際立った業績を上げ続けたのだ。単品経営はリスクテイクであり、独創性の高い絶対的な価値を生み出す。事実上の創業者、松田瑞穂元社長(享年77)は「一つのことに一番になれ、一つのことを極めろ」が口癖だった。牛丼を極めようとするほどに課題が鮮明になり、改善へと向かう。破綻後もその繰り返しが逆境からの脱却の道を指し示してくれた。幸いにも根強い吉野家ファンに支えられ、逆境を跳ね飛ばすことができた。今、吉野家には世界中で一日に約90万人が来店してくださっている。」

ご苦労を重ねられ、経験に裏打ちされた言葉、信念を貫く姿。人間的魅力を感じます。