昨日は地元で市民相談対応の後、市役所で各種打ち合わせ。予想外の雨に一息つけましたが、近くのコミュニティハウスのエアコンが壊れていて、習い事やサークル活動する利用者にとってはここのところの猛暑で大変なことに。対策中です。
ところで、今後、参議院で審議が始まる安保法案。法案の中身や集団的自衛権の一部容認とは何なのかなどという中身の議論でなく、的を射ない質問や、仮定を超えた想像力で現実離れした主張に振り回され、一部のテレビや新聞なども主張はされていますが「一体どうしたいのかわからない」振り切っている現状があります。
今回の議論のそもそもの目的は、米国の状況や対応、周辺諸国の状況、世界で起きている地域紛争の増加など、日本を取り巻く国際環境が変化を続ける中で、日本人の幸福追求の権利、豊かで安全で平和な社会をどにようにして守るかが求められています。
これまで通り専守防衛に徹し、自衛の措置として日本国憲法でできることの限界を示し、他国を守るためには出ていかないことを明確にしたことが今回の審議の重要なポイントだと思っていますが、自衛の措置をさえ認めないとなると、根本的に「自衛隊そのものが違憲」とする考え方とは、政府見解は相いれないというところから議論しなおす必要があると思います。いずれにしましても、政策論議は重要なのですが、反対だけの無責任な言いっぱなしは国の利益にはなりません。
先日、日経新聞の高坂哲郎編集委員が指摘されていました。
「安全保障法制」をめぐる議論がヤマ場を迎えているが、専ら国際情勢を追うのが本業の筆者には、論議をめぐってぬぐえない「違和感」がある。一言で言えば、あまりに「ガラパゴス化」し、日本でしか通用しない内容になっているのではないか、ということだ。その背景を見詰めていくと、戦後70年を経て日本を覆う「分断状態」に行きつく。
違和感を覚える第一の点は、現在の日本の置かれた国際環境について、およそ「共通認識」と呼べるものが見えないまま議論が続いていることだ。
日本が核抑止をはじめとして多くを依存する同盟国は米国だ。そしてその米国は現在、中東での過激派組織「イスラム国」(IS)との戦い、ウクライナをめぐるロシアとの対立、そして中国の軍拡への対抗策と、世界各地に力を分散せざるを得ない状況にある。
中国が南シナ海の各地を埋め立てて「不沈空母」にし、それらに囲まれた聖域をつくって、米国にも届く潜水艦発射式の核弾道ミサイルを配備すれば、先々米国はアジアへの軍事介入をためらい始める。それは日本だけでなくオーストラリアやフィリピンなどにとっても困った事態だけに、各国は「こちらも自助努力をしますから一緒にがんばりましょうよ」と懸命に誘い、米国が引きこもらないよう努めている。「日本が米国の戦争に巻き込まれる」というより「何とか米国を巻き込まなければ先々は自らの安全が危うい」のが東アジアの現実だ。
安保法制への反対論は要するに「日本が役割を拡大する必要はない」ということだ。かつてのような強大な米国が今でも存在していると錯覚し、「無自覚な甘え」を続けてはいないだろうか。
2つ目の違和感は「日本の安全を脅かす相手を利する行為」への鈍感さを見るたびに覚える。
有事の際の日米協力が充実しないまま「本番」を迎えれば、作戦に大きな支障が生じる。そうなれば喜ぶのは、中国や北朝鮮、ロシアだろう。実際、6月に安保法案に反対する人々が国会周辺でデモをした際、中国外交部の報道官が「理解できる」とデモを歓迎する発言をしている。
3つ目の違和感は「議会での論点がずれている」ということだ。
安全保障で大事なのは、自国を守るためにさまざまな手段、カードをあらかじめ持っておくことだ。安保法制が成立すれば、わかりにくいうえに内容面で不十分な点があるとはいえ、以前よりも日本の持てるカードは増える。その上で、その時々の局面で、何をし何をしないかという政策上の判断をすればよい(適時適切な判断ができる政治家がいることが前提だが)。
一方で、現在の日本の安保体制の弱点は、政府が情報の管理をほぼ独占し、安保政策上の失敗をしても闇に葬られてしまいがちだということだ。これでは、失敗の教訓を踏まえて体制を改める「改善サイクル」は回らないし、政策上の「歯止め」もかかりにくい。
米国では、ブッシュ前政権時代に情報機関がテロ容疑者を収容施設で虐待していたことがわかり、その後、議会が調査を始めると、当時の資料がたちまち出てきた。現在の日本では、特定秘密保護法の壁に阻まれて米国のようにはいかない。日本でも安保の改善サイクルが回るようにするには、議会によるチェック権限に強制力を持たせることが欠かせない。野党は、日本の民主主義と安全保障を調和させるため、その一点にこそ力を集中すべきなのに、現実にやっていることはずれている。
■占領軍の内部抗争の延長線
「ガラパゴス化」が際立つ安保法制論議をみるにつけ、同じ空間、同じ時代に生きているはずなのに、見えている世界が随分と違う今の日本の「分断状態」を感じずにはいられない。
その源流には、70年前の敗戦の直後から日本に君臨した連合国軍総司令部(GHQ)内の2つの陣営の対立があった。第一は、戦後日本で労働組合の結成などを促し、戦前からあった左派層を蘇生させた民生局(GS、彼らの中には「隠れ共産主義者」がいた)であり、もう一方は、旧日本軍人らを使って日本の再軍備を進めた参謀第2部(G2)だった。
現在の安保法制をめぐる対立の構図は、とどのつまり占領軍内の内部抗争の延長線上にある。言い換えれば、日本は戦後70年も経つというのに、現実的、プラグマティックに自らの安全を守っていこうという自前の「総意(コンセンサス)」を作れずにいる。
気になるのは、近年の自衛隊の内部に、彼らが遂行する仕事に異論を唱える日本国民のことを内々に「エネミー(敵)」と呼ぶ幹部自衛官が現れ始めたことだ。筆者の見るところでは、こうした自衛官たちは、国民の中に自衛隊の行動の基盤となる「総意」ができない中で、心のよりどころを旧日本軍や米軍との絆に求めている。
国民同士の分断状態に加えて、国民と自衛官の間にも静かに分断線が走りつつあるのが戦後70年の日本の姿である。悲しむべきであり、事態がこれ以上おかしくなる前に、「分断」を埋める手立てを考えねばならない。」
それぞれの国には、それぞれの都合があり、それぞれの言い分があります。同時に、国内にも様々な意見や考え方があるわけですが、冒頭のような「目的を共有」するところから確認していく必要があると思います。