子どもの貧困問題について
約2ヶ月ぶりのブログ更新です・・・
今月(10月)号の「月刊公明」に、『「子どもの貧困」対策は分断から包摂の社会で』と題して、子どもの貧困対策センターの小河光治氏のお話が掲載されていました。実は最近勉強しているテーマでもありましたので、少々思うところを書いてみようと思います。長文・駄文ご容赦下さい。
経済大国であり、「豊かな」国であるはずの日本で、最近『子どもの貧困』という言葉をよく耳にします。「6人に1人の子どもが貧困」とも言われますが、そもそもそう言われる根拠は何なのでしょうか?
まずは貧困率の説明をしなければなりません。
貧困率とは、世帯収入から国民一人ひとりの所得を試算して順番に並べたとき、真ん中の人の所得の半分(貧困線)に届かない人の割合です。そして子どもの貧困率は、18歳未満でこの貧困線を下回る人の割合を指します。
厚生労働省による調査では、子どもの貧困率は1985年は10・9%だったものの、2012年は過去最悪の16・3%となりました。この結果から見ると、およそ6人に1人が貧困という結果になります。現在学校の1クラスの平均は30名程ですから、一般的な所得の半分にも満たない水準で暮らしている貧困状態の子ども達が、クラスに5名はいるということになります。
厳しい経済状況の中にあって注目を浴びているのは学力の問題です。これは全国学力テストにおいても、低所得世帯の子供の学力が低いことが分析されています。
学力だけではありません。食生活や健康、そして親子関係など、様々な問題を背負っている子ども達がたくさんいます。しかし厄介なことに、子どもの貧困は実態が見えにくいのです。
自分の話で恐縮ですが、私は小学校5年生の時に父を亡くしました。当時53歳だった母がパートで働いて生計を支えていましたが、頑張っても収入は知れています。しかも「人に笑われる、恥ずかしい」と言って母は断固として生活保護を受けませんでした。
ひどい話ですが、亡くなった父が会社を経営していた(死んだ時は借金しか残っていませんでしたが)ので、「どうもかなり生命保険が入ったみたいだぞ」という根も葉もない噂話をする人もいました。恥ずかしさから貧困状態を必死に隠し、更にはそんな噂話が広がったら・・・なかなか周りから貧困状態をみつけることはできないでしょう。
状況は様々だと思いますが、実際に傍目からはわからなくても我慢を重ねているケースは相当あるのではないでしょうか。こうしたことから考えても、やはり社会全体で貧困問題に取り組むこと、そして実態の「見える化」を進める必要があると思います。
と、一口に言っても簡単なことではありません。とかくこうした話になると出てくるのが自己責任論です。よく離婚して貧困状態になると「あなたのわがままで離婚したのだから貧困に陥っても仕方がない」という人がいますよね。でも、例えば夫からのDVで、肉体的、精神的、経済的な暴力から自分と子どもを守るために必死の思いで逃げてきた人なんかも、その事情を隠していたために周りが知らなければ簡単に「自己責任」と言われてしまったりします。実際そういう話はたくさんあるのです。
生活保護へのバッシングも同じです。「怠けているから貧しいんだ」「人の税金で暮らすなんてとんでもない」という言葉が飛び交ったりします。そういう私も、かつて貧困は自己責任と思うところもありました。しかし市議になって約5ヶ月、この間様々な方のお話を伺ってきましたが、生活保護を利用している人に限らず、困窮している人の多くは何かしらの経緯・背景があるということがよくわかりました。これは私自身に対する戒めですが、安易な自己責任論に陥ることがないよう、差別や偏見を越えて、目に見える状態の背後にあるものを知ろうとする努力が必要だと思っています。
貧困というのは社会の中で生じる現象であります。そう考えれば、あくまでも個人ではなく社会の問題として、社会全体で対策を講じていかなければならない問題なのではないでしょうか。
貧困を個人の責任になすりつけて終わらせるのではなく、貧困に陥らないように社会としてどういう仕組み、制度を組めばよいのか。貧困に陥ってしまった人たちに対して、社会はどういう支援をしていけばよいのか。簡単ではありませんが、そこを出発点にして議論を進めていく必要があるように感じます。