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公明党○○支部 平野充
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大津市の「いじめ事件」

いじめられたあげく自殺とは何と酷い事件か!

私は「いじめを許さない!」という立場から申す。

私は2001年(当時33歳)の成人式の日、「いじめ撲滅キャンペーン」を起こした。

成人式を迎えられた“大人”である青年に訴えた。

子どもの世界でクローズアップされている「いじめ」も大人の責任だからである。

キャンペーンを起こし始めた2年後、奇しくも私はそこから約8年間、中学校で働くことになった。

中学生らが学校でどのように過ごしているのかを8年間、この目で見てきた。

小さなことだが、ふざけあってガラスを割ったり、天井に穴をあけたり、様々ないたずらをしたり

などは日常茶飯事である。

そんな小さなことでも“犯人”を探すのにはちょっとした苦労がいる。

なぜなら、生徒たちの中で“隠す”(なかなかしゃべらない)風習みたいなものがあるからである。

「いじめ」が行われていても、「よく知らない」「よくわからない」といったスタンスをとる子が多い。

これらも今の社会的背景があるように思う。

決して気持ちの良いものではない。いや、ものすごく汚れた空気だ。

誰かが、強烈なパワーの掃除機できれいに掃除してあげなければならない。

では、誰が?

学校の先生が“鈍い”あるいは“対応力のない”人だと、いじめはエスカレートしていく。

いじめをなくすにはいじめる側に巣食う“悪”を取り払わなければならない。

まず、「いじめ」をする側の子は、多分にその親(大人)に原因があることも確かである。

学校に呼び出された親は「いじめられるほうも悪い」という誤った考えが根にあったり、

“たかが”いじめなどといじめに対する見識が低かったりする場合がほとんどである。

そして、我が子に対しての叱り方も甘い。あるいは的が外れている。

大事なことを、親と子どもできちんと向き合って話をしていない、できないのである。

1対1で真正面から向き合う対話。これが大事である。

ただ、家庭でそれができないのであれば、学校で教えなければならない。

誰かがその教育を行う自覚を持たなければならない。

自覚を持てないのであれば、親であれ、教師であれ、

厳しい言い方をするが、それは教育の放棄である。

1対1の対話といってもそれは単なる形式ではない。

“本気”であるかどうかである。

子どもたちは“本気”をあまり知らない。

本気に触れ合う機会が少ないから当然といえば当然である。

ここであえて言っておくが、体罰は本気とは全く違う。

体罰を行う者は力のない証拠をさらけ出した姿に他ならない。

私は中学校に勤務した間に2回だけ生徒を本気で叱った。

1回目は、「勉強の優等生」と「運動能力に長けた子」の喧嘩の場である。

休み時間、廊下がやけに騒がしいのに気づいた。

近づいてみると

運動能力に長けた子が優等生にちょっかいをかけた形で喧嘩が始まっていた。

その二人の周りには30人ほどが、その光景を囃し立てていた。

私は強引に喧嘩を止めさせたが、優等生は悔しそうに廊下を走り去っていった。

そのとき私は周りで喧嘩を囃し立てていた生徒らに本気で叱った。

「お前らは何で喧嘩を止めないんだ」

「何をヘラヘラ笑って傍観しているんだ」

と、咄嗟であったが自分の心に微塵の偽りもなく、本気で叱った。

2回目は校庭の池の鯉をいじめてふざけあっている生徒を見つけたときである。

鯉を網ですくい、水から出してピチャピチャ跳ねて苦しむさまを5~6人で楽しんでいたのである。

無抵抗な弱いものをいじめる典型であった。

このときも私は本気で叱った。

腹の底からの本心を表に出すとき、子どもは「ハッ」と何かに気づく。

“本心”は“本気”という言葉に変えるとわかりやすい。

もっと深い言い方をすれば偽りのない“本物”という言葉に置きかえることが出来るかもしれない。

本気で叱られるその「一場面」も一瞬だけの“本物との出会い”と言えばわかりにくいだろうか。

人間らしさを失っていっている社会の中で「人間の魅力」を教える授業こそ必要である。

それは、子どもにだけでなく、できれば親も一緒に。

☆ とてつもなく重い病と闘い抜いて健康を勝ち取られた人。

☆勉強が出来ず、どうしようもなかったが後に立派な社長さんになった人。

☆貧乏のどん底生活をしてた人が努力して努力してお金持ちになった人。

☆人とのかかわりが大の苦手だったが現在素晴らしい社会人として活躍する人。

などなど。

不遇であったり、弱い自分であったりした人が

自身に打ち勝ち、勝利をつかんでいく“生”の人間。眩いばかりに輝く人間。

偽りなく、言い訳なく、真正面から向き合う人間vs人間のふれあい。

こういった“本物との出会い”を子どもたちにたくさん持たせてあげたい。

本物との出会いにより、弱いものを集団でいじめる「いじめ」が

人間としていかに醜い行為であるかを、衝撃を覚えるほどの「人間の魅力」で応戦すべきである。

有名人を探してこなくても、すぐ近くの地域の中にも“本物”がいるものだ。

悪が伝染していくのと同じく勇気も伝染する。

悪よりも早く、多く、「勇気ある生き方」を子どもたちに伝染させてあげたい。

私はこれを「生きた人間学」と申して

この授業の取り組みを、議員スタートの最初の議会で教育長・教育部長に提案した。

いじめを許さない!と自覚をした者として。

僭越ながら、私は中学校の職場を去る最後の挨拶のとき、

朝礼で体育館に集合した全校生徒の前で「生きた人間学」の見本を示した。

それは、短時間でのおそまつな授業であったかもしれない。

校長先生のお許しを受け、自分の生い立ちを通しながら本気を出して語った。

うれしくも先生方から「素晴らしい道徳授業だった」とお褒めの言葉を頂戴した。

朝礼のあと、各教室に戻った学活内容が変更され、私への手紙を書く授業になっていた。

恐縮した。

そして山積みになった、みんなからの手紙が届いた。

嬉しかった。

翌日、よく問題を起こしていた男の子から初めて「平野さん、おはようございます!」

と笑顔で挨拶をうけた。

これまでお世話になったみんなへの御礼のプレゼントになったかな?と感じた瞬間であった。

今後も「いじめ」に対する“怒り”を私は持ち続ける。

そして、命をなくされた子に衷心よりご冥福を祈り続けます。

 

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