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公明党○○支部 平野充
hirano-m@jc.ejnet.ne.jp

Archive for 2012年 7月

こころの健康めざして!

ロンドンオリンピックが始まった。

サッカーはすでに予選がスタートし日本は女子・男子とも素晴らしい試合を展開している。

私はスポーツが大好きだ。オリンピックとなればそれはもう格別である。

また、日本の応援テーマソングである「風が吹いている」が絶妙だ。

勇気と感動がマッチするとてもいい曲になったと思う。音楽を愛する私にとってこんな嬉しいことはない。

オリンピックはこころを健康にしてくれる。

開催地がロンドンであるので時差はあるが、

未来っ子たちには夏休みである時を有効にぜひテレビ観戦してもらいたいと思う。

さて、調布市には「こころの健康支援センター」があります。

旧保健所跡地(布田5-46-1)で前庭も広く、静かでゆったりしている。

社会福祉士・精神保健福祉士の職員さんがいつでもやさしく迎えてくださいます。

昨年、私は議会の一般質問で、この素晴らしい施設をもっとアピールすべきだと述べた。

精神的な病のある方や発達障がいのある方への就労支援(就労支援室ライズ)も併設された

実に素晴らしい施設であります。

質問以降、就労支援室ライズのパンフレットをグレードアップしていただきました。

また、近くの電信柱への案内掲示も増設していただきました。

感謝いたします。

まだまだ、ご存じでいらっしゃらない方々も多くいらっしゃいます。

現在、バスに乗車されている方々へのアナウンスも入れていただきたいと要望しているところです。

さて、オリンピックに話は戻りますが、

私は「いじめ」と「オリンピック」は全く対極にあるものだと感じている。

なぜなら、オリンピックは、表面上は一国を代表する選手同士が勝負を決する競技の場だが、

深い部分では、国境を越えた自分自身と戦う者同士が全力でぶつかり合い称えあう場であること。

また、強い相手の存在を喜び、真摯に学び、更なる自身の成長への出発の場であること。

言わばスポーツを通した人間の祭典。

一方、「いじめ」は自分自身との戦いを避けた者同士が暗黙の徒党を組み、

あきらかに弱いと見える無抵抗な相手を痛めつけて快楽を得ようとするもの。

オリンピックの選手が神々しいまでに美しい姿であるのに対し、

いじめを行う者の何と醜い、人間としての敗北者たる姿か。

私はこういったことも、かつて中学生の皆に語った。

更に、自分自身に勝てた人が味わう「感謝の心」の話もした。

この偽りのない「感謝の心」を持てる人こそ、一流の証であること。

このことも力を込めて語り抜いた。

皆の幸せを願って。

さあ、オリンピックを見て、皆で心の健康を養いたいと思う。。。

街頭演説

7月15日(日)15時20分~つつじヶ丘駅北口にて公明党広報カーを使用して街頭演説を行いました。

九州地方の豪雨被害へのお見舞いを申し上げるとともに九州地方の公明党議員が救済活動に

全力をあげていること。

消費税率引き上げ法案について、将来への責任を持つ公明党の自覚として、

◎経済成長戦略としての防災・減災に向けた社会基盤整備事業の具体案を提唱。

◎医療・年金・介護・子育てを中心とした社会保障財源のための税率加算であることの約束。

◎生活者のために、食料や医薬品等、生活必需品となるものへの軽減税率の導入等、税負担の軽減。

民・自・公の三党協議にてこのたびの法案に約束事として盛り込ませた大きくこの3点を今日は話しました。

そして、大津市での事件に触れ、「いじめ根絶」へ向け、

これまで私自身を含めた調布市公明党が取り組んできたこと。

あわせて、いじめに悩む方々がいらっしゃったら、公明党議員に助けを求めてください!

と声をあげて訴えました。

公明党は結党以来、弱者の味方であること。福祉の党であること。

国民の生活に対し、責任を自覚する党であることを演説しました。

大津市の「いじめ事件」

いじめられたあげく自殺とは何と酷い事件か!

私は「いじめを許さない!」という立場から申す。

私は2001年(当時33歳)の成人式の日、「いじめ撲滅キャンペーン」を起こした。

成人式を迎えられた“大人”である青年に訴えた。

子どもの世界でクローズアップされている「いじめ」も大人の責任だからである。

キャンペーンを起こし始めた2年後、奇しくも私はそこから約8年間、中学校で働くことになった。

中学生らが学校でどのように過ごしているのかを8年間、この目で見てきた。

小さなことだが、ふざけあってガラスを割ったり、天井に穴をあけたり、様々ないたずらをしたり

などは日常茶飯事である。

そんな小さなことでも“犯人”を探すのにはちょっとした苦労がいる。

なぜなら、生徒たちの中で“隠す”(なかなかしゃべらない)風習みたいなものがあるからである。

「いじめ」が行われていても、「よく知らない」「よくわからない」といったスタンスをとる子が多い。

これらも今の社会的背景があるように思う。

決して気持ちの良いものではない。いや、ものすごく汚れた空気だ。

誰かが、強烈なパワーの掃除機できれいに掃除してあげなければならない。

では、誰が?

学校の先生が“鈍い”あるいは“対応力のない”人だと、いじめはエスカレートしていく。

いじめをなくすにはいじめる側に巣食う“悪”を取り払わなければならない。

まず、「いじめ」をする側の子は、多分にその親(大人)に原因があることも確かである。

学校に呼び出された親は「いじめられるほうも悪い」という誤った考えが根にあったり、

“たかが”いじめなどといじめに対する見識が低かったりする場合がほとんどである。

そして、我が子に対しての叱り方も甘い。あるいは的が外れている。

大事なことを、親と子どもできちんと向き合って話をしていない、できないのである。

1対1で真正面から向き合う対話。これが大事である。

ただ、家庭でそれができないのであれば、学校で教えなければならない。

誰かがその教育を行う自覚を持たなければならない。

自覚を持てないのであれば、親であれ、教師であれ、

厳しい言い方をするが、それは教育の放棄である。

1対1の対話といってもそれは単なる形式ではない。

“本気”であるかどうかである。

子どもたちは“本気”をあまり知らない。

本気に触れ合う機会が少ないから当然といえば当然である。

ここであえて言っておくが、体罰は本気とは全く違う。

体罰を行う者は力のない証拠をさらけ出した姿に他ならない。

私は中学校に勤務した間に2回だけ生徒を本気で叱った。

1回目は、「勉強の優等生」と「運動能力に長けた子」の喧嘩の場である。

休み時間、廊下がやけに騒がしいのに気づいた。

近づいてみると

運動能力に長けた子が優等生にちょっかいをかけた形で喧嘩が始まっていた。

その二人の周りには30人ほどが、その光景を囃し立てていた。

私は強引に喧嘩を止めさせたが、優等生は悔しそうに廊下を走り去っていった。

そのとき私は周りで喧嘩を囃し立てていた生徒らに本気で叱った。

「お前らは何で喧嘩を止めないんだ」

「何をヘラヘラ笑って傍観しているんだ」

と、咄嗟であったが自分の心に微塵の偽りもなく、本気で叱った。

2回目は校庭の池の鯉をいじめてふざけあっている生徒を見つけたときである。

鯉を網ですくい、水から出してピチャピチャ跳ねて苦しむさまを5~6人で楽しんでいたのである。

無抵抗な弱いものをいじめる典型であった。

このときも私は本気で叱った。

腹の底からの本心を表に出すとき、子どもは「ハッ」と何かに気づく。

“本心”は“本気”という言葉に変えるとわかりやすい。

もっと深い言い方をすれば偽りのない“本物”という言葉に置きかえることが出来るかもしれない。

本気で叱られるその「一場面」も一瞬だけの“本物との出会い”と言えばわかりにくいだろうか。

人間らしさを失っていっている社会の中で「人間の魅力」を教える授業こそ必要である。

それは、子どもにだけでなく、できれば親も一緒に。

☆ とてつもなく重い病と闘い抜いて健康を勝ち取られた人。

☆勉強が出来ず、どうしようもなかったが後に立派な社長さんになった人。

☆貧乏のどん底生活をしてた人が努力して努力してお金持ちになった人。

☆人とのかかわりが大の苦手だったが現在素晴らしい社会人として活躍する人。

などなど。

不遇であったり、弱い自分であったりした人が

自身に打ち勝ち、勝利をつかんでいく“生”の人間。眩いばかりに輝く人間。

偽りなく、言い訳なく、真正面から向き合う人間vs人間のふれあい。

こういった“本物との出会い”を子どもたちにたくさん持たせてあげたい。

本物との出会いにより、弱いものを集団でいじめる「いじめ」が

人間としていかに醜い行為であるかを、衝撃を覚えるほどの「人間の魅力」で応戦すべきである。

有名人を探してこなくても、すぐ近くの地域の中にも“本物”がいるものだ。

悪が伝染していくのと同じく勇気も伝染する。

悪よりも早く、多く、「勇気ある生き方」を子どもたちに伝染させてあげたい。

私はこれを「生きた人間学」と申して

この授業の取り組みを、議員スタートの最初の議会で教育長・教育部長に提案した。

いじめを許さない!と自覚をした者として。

僭越ながら、私は中学校の職場を去る最後の挨拶のとき、

朝礼で体育館に集合した全校生徒の前で「生きた人間学」の見本を示した。

それは、短時間でのおそまつな授業であったかもしれない。

校長先生のお許しを受け、自分の生い立ちを通しながら本気を出して語った。

うれしくも先生方から「素晴らしい道徳授業だった」とお褒めの言葉を頂戴した。

朝礼のあと、各教室に戻った学活内容が変更され、私への手紙を書く授業になっていた。

恐縮した。

そして山積みになった、みんなからの手紙が届いた。

嬉しかった。

翌日、よく問題を起こしていた男の子から初めて「平野さん、おはようございます!」

と笑顔で挨拶をうけた。

これまでお世話になったみんなへの御礼のプレゼントになったかな?と感じた瞬間であった。

今後も「いじめ」に対する“怒り”を私は持ち続ける。

そして、命をなくされた子に衷心よりご冥福を祈り続けます。

 

救命技能講習

7月4日(水)午後、調布市議会議員は3時間コースの救命講習を受けました。

私もこれまで、過去に3回ほど講習を受けたが、だんだんと簡素化されてきたように感じた。

確かに細かく難しい内容で講習を受けてもいつまでも覚えていられない。

ましてや、“いざ”というとき一番重要なことがわからなくなってしまっては台無しである。

一番手前が私。

写真はAEDで電気が流れる際に離れないといけない場面。

スイッチを押すところです。

反応がない。まず、この段階で近くに人がいれば119番通報とAEDを探して持ってきてもらう。

呼吸がない。脈がない。ただちに心肺蘇生が必要となる。

救急隊が到着するまで続けるには体力が必要です。

講習では最後に筆記のテストも終え、消防署長より認定証をいただきました。

最後に署長さんの話があり、東京消防庁管内では年間12000人が救急搬送されている中、

3700~3800人程度が応急処置により、命が助かっているとのことでした。(約40%)

救急の応急処置率が世界一高いのはアメリカ・シアトルとのこと。(80%以上)

調布市では市立小学6年生と中学3年生に救命技能講習が行われるようになりました。

署長さんより「調布市は今後、人命救助意識の高い市になりますよ」との激励をいただきました。