今から12年前の2004年6月1日に佐世保市立大久保小学校6年生の女子生徒が、学校内で同級生の女子生徒によってカッターナイフで殺害されるというショッキングな事件が起きました。
その事件を真正面から取り上げた『謝るなら、いつでもおいで』(集英社)の著者である毎日新聞千葉支局の川名壮志記者からお話を伺う機会がありました。

 

川名記者は当時、毎日新聞佐世保支局で勤務しており、当時の直属の上司が被害者女子生徒の父親である御手洗恭二・佐世保支局長であるという数奇な関係からも、この事件やルポルタージュは話題になり、本著作は開高建ノンフィクション賞最終候補作にもなりました。
私は川名記者と話すのは初めてではなく、既に信頼してお話ができる関係にありましたが、この事件について腰を据えてお話を聞く機会は初めてで、様々な想いをもって臨みました。
というのも、私は事件当時、法務省矯正局少年関係の部署の事務官として、この事件の取材に押し寄せるマスコミへの対応で苦慮している現地施設への窓口や相談相手になっており、私なりの当事者感を持っていたからです。

私が川名記者のお話を伺った印象を一言で表すと、「真実の近くにいた人ほど、その発言は謙抑的で重い」ということです。

それを裏返せば、傍観者ほど扇動的で軽々しく語る、とも言えるかもしれません。

私は当時から、職務としてマスコミと上手く付き合おうとする意識はあるものの、心情的にはマスコミに苦手意識があることも率直にお伝えしました。
特に少年事件については、基本的な知識が欠如しているのに多くを語ろうとする報道姿勢に反発を感じていた心情から、マスコミに施設周辺で張り込まれると、子どもをグランドで運動させにくく、結果的に子どもが迷惑をこうむるという実務上のことなどなど。

川名記者は、専門家からそのような印象を持たれているという意識は常に抱いている一方で、専門家が少年事件について発信しないことによって、中途半端な距離感の人が語り、誤った情報が流布する、ミスリードされていることへのもどかしさを抱いていることも強く感じました。

このように書くと、私と川名記者が対立しているような印象を持たれるかもしれませんが、その逆で、立場を超えた率直な議論が可能というのが本当のところです。
実際に、お話をする中で様々な新しい発見や意見の一致を見出しました。

例えば、少年法61条は少年の実名報道を禁止していますが、子どもの人権問題だけでなく、矯正や更生保護の現場からメディアの視線を遠ざけてしまう、現場に従事する職員に社会を意識させなくしてしまう機能も同時に果たしてしまっていることへの危惧は、私にとっては反省すべき点でもありました。
子どもの人権を守るといいながらも、実は保護する、教育する大人側がメディアの視線から隠れる口実にもなっていたという一面です。
そのことによって、社会の関心も少年事件の審判までで終わってしまい、その加害者がその後どのように教育され、社会復帰していくかに及びにくくなります。

また、そのことは逆説的に以下の現象を起こしています。
つまり、少年院や刑務所は現在、積極的にマスコミ取材を受け、歓迎すらしている方針ですが、マスコミにとっての、また社会からの関心が最も強いのは少年事件の逮捕から審判決定のあたりまでであり、そこについては全く正確な情報がマスコミに入らないため、情報の需給バランスが全くかみ合っていないままミスリードが起きているという現状です。

他にも話題は、警察の対応から触法少年への鑑定留置の是非まで尽きませんが、
こんなに真摯に少年事件と向き合っている記者の方にあったのは初めてで、もしかしたら自分が他にも会っていないだけで、もっと対話することが必要なのかも、という気持ちにさせてくれました。

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