今年の3連休、シルバーウィークは
①敬老会に出席(ありがとうございます!おめでとうございます!)
②会期中で進められなかった市民相談に対応(申し訳ありませんでした(;´・ω・))
③いよいよの議会質問の作成(気づけば夏が終わっていた?!)
でテンヤワンヤかと思いきや、
支部会の準備(今年は少し遅い時期にやります!)、
いや、でもその前に
党員登録(今年も大変お世話になります!)
いやいや、
公明新聞の…(…)
間断なき戦い、しかしどれも譲れない、引けない大事な活動ですので、頑張ります!
ちなみに、敬老会の写真に写っている噺家は私ではなく、千葉大学の落語研究会の学生さんです。地域のためにありがたいですね。
千葉市稲毛区緑町にあるフードバンク千葉を会派で視察しました。
フードバンク千葉では150か所ほどの相談・支援窓口と連携して、困っている方々への食品支援を行っていますが、昨年4月の生活困窮者自立支援法の施行で県内全市で相談窓口が開設されたことにより、利用が急増している状況を伺いました。
全国的に広がっているこの新しい取り組みは、食品ロスとの兼ね合い、行政・政党との兼ね合い、様々整理する必要がある事業でもあると感じました。
例えば、政党が前面に出ると税金の投入は困難ですし、税金を投入できる事業に整理した場合には、今度は支援対象者の要件や認定手続きが厳格にならざるを得ないため、現在のような小回りの利いた活動が困難になることが予想されます。
国政で公明党が進めている食品ロスとも合わせて整理し、善意が有効な事業になるように自らの立場から考えていきたいと思います。
今から12年前の2004年6月1日に佐世保市立大久保小学校6年生の女子生徒が、学校内で同級生の女子生徒によってカッターナイフで殺害されるというショッキングな事件が起きました。
その事件を真正面から取り上げた『謝るなら、いつでもおいで』(集英社)の著者である毎日新聞千葉支局の川名壮志記者からお話を伺う機会がありました。
川名記者は当時、毎日新聞佐世保支局で勤務しており、当時の直属の上司が被害者女子生徒の父親である御手洗恭二・佐世保支局長であるという数奇な関係からも、この事件やルポルタージュは話題になり、本著作は開高建ノンフィクション賞最終候補作にもなりました。
私は川名記者と話すのは初めてではなく、既に信頼してお話ができる関係にありましたが、この事件について腰を据えてお話を聞く機会は初めてで、様々な想いをもって臨みました。
というのも、私は事件当時、法務省矯正局少年関係の部署の事務官として、この事件の取材に押し寄せるマスコミへの対応で苦慮している現地施設への窓口や相談相手になっており、私なりの当事者感を持っていたからです。
私が川名記者のお話を伺った印象を一言で表すと、「真実の近くにいた人ほど、その発言は謙抑的で重い」ということです。
それを裏返せば、傍観者ほど扇動的で軽々しく語る、とも言えるかもしれません。
私は当時から、職務としてマスコミと上手く付き合おうとする意識はあるものの、心情的にはマスコミに苦手意識があることも率直にお伝えしました。
特に少年事件については、基本的な知識が欠如しているのに多くを語ろうとする報道姿勢に反発を感じていた心情から、マスコミに施設周辺で張り込まれると、子どもをグランドで運動させにくく、結果的に子どもが迷惑をこうむるという実務上のことなどなど。
川名記者は、専門家からそのような印象を持たれているという意識は常に抱いている一方で、専門家が少年事件について発信しないことによって、中途半端な距離感の人が語り、誤った情報が流布する、ミスリードされていることへのもどかしさを抱いていることも強く感じました。
このように書くと、私と川名記者が対立しているような印象を持たれるかもしれませんが、その逆で、立場を超えた率直な議論が可能というのが本当のところです。
実際に、お話をする中で様々な新しい発見や意見の一致を見出しました。
例えば、少年法61条は少年の実名報道を禁止していますが、子どもの人権問題だけでなく、矯正や更生保護の現場からメディアの視線を遠ざけてしまう、現場に従事する職員に社会を意識させなくしてしまう機能も同時に果たしてしまっていることへの危惧は、私にとっては反省すべき点でもありました。
子どもの人権を守るといいながらも、実は保護する、教育する大人側がメディアの視線から隠れる口実にもなっていたという一面です。
そのことによって、社会の関心も少年事件の審判までで終わってしまい、その加害者がその後どのように教育され、社会復帰していくかに及びにくくなります。
また、そのことは逆説的に以下の現象を起こしています。
つまり、少年院や刑務所は現在、積極的にマスコミ取材を受け、歓迎すらしている方針ですが、マスコミにとっての、また社会からの関心が最も強いのは少年事件の逮捕から審判決定のあたりまでであり、そこについては全く正確な情報がマスコミに入らないため、情報の需給バランスが全くかみ合っていないままミスリードが起きているという現状です。
他にも話題は、警察の対応から触法少年への鑑定留置の是非まで尽きませんが、
こんなに真摯に少年事件と向き合っている記者の方にあったのは初めてで、もしかしたら自分が他にも会っていないだけで、もっと対話することが必要なのかも、という気持ちにさせてくれました。
本日、稲毛海浜公園にて第37回九都県市合同防災訓練が千葉会場で実施されました。
海上訓練と陸上訓練に官民問わず多くの機関、団体が取り組み、展示・体験ブースには多くの市民が参加されてました。
現在、岩手県では訓練ではなく救助活動の真っ最中。訓練を視察するこちらの視線も思わず真剣になります。
それにしても、私だけでなく市議会の多くの会派が来賓参加していましたが、自衛隊も訓練に参加しているせいか、某党はこの手の訓練に関心を示さないですね。
しかしながら、よその党のことよりも、自らの自撮のひどさを問題視すべきですね。
背景を調整しようとすると、いまだにどこを見るべきか全く分からなくなってしまう…反省(恥)やっぱりしばらく載せません(涙)
今夏は刑務所や少年院見学の機会に恵まれ、退職前とは異なる視点で伺いました。
地元千葉市の若葉区にある千葉刑務所には法科大学院生の方々に同行させていただき、そのほか少年院等の教育を研究されている研究者グループの方々とは一緒に遠方に出向き、薬物依存離脱指導R1を全受刑者(!)に実施している刑務所では、かなり踏み込んだ見学をさせて頂いたり、少年院では、協力雇用主の劇的な開拓をした法務教官から7時間も話を伺うことができました(時間外含む)。
濃いぃ。
ありがたいことに、行く先々で久方ぶりにお会いする方々に本当に温かく対応していただきました。大変ありがとうございました!
研究者の方々も濃い視察内容を大変喜ばれ、矯正施設への信頼もさらに高まった印象でした。
そういえば刑務作業製品のそば打ち道具というレアな一品にも出会えたのに、写真を撮り忘れてしまいました…残念
受刑者や少年院生(だけでなく鑑別所退所者も)の社会復帰が重要な政策課題ではありますが、私の見込みでは、地元の千葉刑務所が来年の4月以降に日本における位置づけが大きく変わる予感がしているので、秘かに調べているところです。
公明党千葉市議団として、今夏は佐賀県や北九州市、久留米市に視察に行かせていただき、若者サポートセンター、エネルギーマネジメントのスマートコミュニティ、広域連携、オープンデータ、子ども食堂などについて学ばせて頂きました。
特に心に強く刺さっていることを二つだけ紹介させていただきます。
まずは、佐賀県子ども・若者総合相談センター長である「NPOスチューデント・サポート・フェイス」代表理事の谷口仁史三との出会いは衝撃的でした。
見かけは威厳や迫力を醸し出すことなく、気さくな優しい青年という印象を与える谷口さんは、
既にNHKテレビの「プロフェッショナル仕事の流儀」で紹介されている方で、その道では有名な方ですが、恥ずかしながら私は詳しく知りませんでした。
谷口さんの偉大さを私ごときが表現するのはおこがましいのですが、対象者との最後の接点は「人」の「心」で決まることを熟知しながらも、接点までのおぜん立て、いやそれだけでなく、接点の在り方そのものも、見事なまでにエビデンスにこだわって「仕組み」として自覚的に築かれていることだと感じました。
個人技に頼ることなく、数字・データを重要視しながらも、どこまでも対象者のニーズを見極めていく、論理的にも詰めていく凄みを感じました。
そこにはクリティカルな視点が常に共存しており、自らの働きかけを常に自省されています。
その視点は、いやおうなしに公的機関にも向けられることもあり、「来訪者に対して、最初に帳票を全て書けというのは無茶で、そんなこと言われたら、相手は逆にこちらを信用できなくなる」との言葉には、少し耳が痛い気がしました。
そのお人柄は、とことんデリカシーのかたまりで、傷ついた若者が受け入れられる状況を作ることに全神経を注がれている印象でした。
例えばそれは、入口には人が「待ち構えていない」ことや、裏から出入りすることもできるようになっていることなど、そんな小さな気遣いにも表れていました。
私は時には、シビアだったり意地悪だったりする質問もしましたが、「待ってました」「よくぞ聞きにくいことを聞いてくれてありがとう」と言わんばかりに、谷口さんは嬉しそうに、見事な三倍返しをしてきました。
真剣な人は、相手の側に立ったアウトリーチへの思考と情熱、そして徹底した組織化に行きつくのか…今後も学ばせて頂きたいと強く感じました。
もう一つは、環境都市としての北九州市の歴史です。
これは本題になかったテーマでした。
本来は、写真にあるように徹底したエネルギー管理を施したスマートコミュニティが視察の目的でしたが、そこに至る過程を学ぶに当たり、別の事項に関心を持ちました。
それは、この北九州市が1960年代に未曾有の公害に襲われながらも、現在では世界に誇れる環境都市へと生まれ変わった奇跡であり、その運動の在り方です。
水俣病などの他の公害問題と比べて、北九州市の公害問題は私だけでなく、全国的にさほど知られていませんでした。
そのこと自体が極めて示唆的な特性から派生しているものです。
つまり、北九州市の公害問題は大きな訴訟問題、対立運動としてではなく、住民と企業と自治体が協力して、事態の打開に当たりました。対立が激化しなかったから全国的にも歴史的にも知られていないのだと思います。
しかも、そのきっかけを作ったのは、地元婦人会のお母さんたちであり、「家庭」でした。
この協力関係は、家族がその企業に勤めていたことに多くを負っており、企業の責任を追及することよりも、対話することが求められたことに依ります。
被害者と加害者としてではなく、市民と企業が向き合って対話し、行政がその仲介した共存関係が成立しました。
このことは、様々な運動が渦巻く現代の社会状況にも大変示唆的です。
東日本大震災での原発被害について東京電力の責任を問う意見が多く聞かれますし、実際もっともであると思います。
ただし、震災直後の現地では、事故の申し訳なさで気後れする東京電力の社員に対しても、「同じ被災者」として多くの避難所で迎え入れ、ともに難局に立ち向かっていたと聞いています。
多くのことを教えてくれた視察となりました。