救済法成立を主導した坂口副代表(中央)に感謝の意を伝える被害者団体=2012年9月
カネミ油症事件。それは、西日本一帯を中心に約1万4000人が被害に苦しめられた、わが国最大にして空前の食品公害事件である。油症発覚から44年、被害者の悲願であった公的救済が今年8月、ついに立法化された。その背景には、事件発生直後から被害者に寄り添って奮闘してきた公明党の闘いのドラマがあった。
1968年10月。「美容と健康に良くて安い」。そんな宣伝文句に誘われ、カネミ倉庫製の米ぬか油を口にした被害者は、がんや内臓疾患、赤ちゃんの死産などに襲われていた。
- 原因究明へ調査団
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事態を重く見た公明党は、原因究明に向け直ちに動いた。同月15日、参院議員の原田立、内田善利らは問題の油を鑑定した久留米大学医学部教授から事情を聴取。翌16日には、衆院議員の田中昭二らが九州大学の油症研究班を緊急訪問したほか、公明党は各地方議会でも被害の実態調査に乗り出した。
被害者の援護対策など政府の対応が進まない中、公明党は72年7月と75年1月、被害が集中した長崎県五島列島などに参院議員の小平芳平を団長とする党カネミ油症調査団を派遣し、被害者の病状経過など聞き取り調査を実施した。
2度にわたる調査に同行した五島市の森勝昭(66)は「病苦と生活苦にあえぐ被害者とその家族は、わらをもつかむような思いで助けを求めていた」と述懐する。公明党は徹底した調査を基に、国会で再三にわたり被害者の救済を迫った。 - 坂口答弁が突破口開く
- その後も政府による救済策は遅々として進まず被害者は絶望のふちで長い年月を過ごした。だが公明党が連立政権に参画したことにより、被害者救済への流れが一気に加速する。
事件は長い間、ポリ塩化ビフェニール(PCB)の混入が原因とされ、PCB汚染の診断基準が用いられてきた。しかしPCBより、はるかに毒性の強いダイオキシン類のポリ塩化ジベンゾフラン(PCDF)が主因だとわかり、2001年12月の国会質疑では、公明党参院議員の山下栄一が、「ダイオキシンに対応した基準に見直すべき」と主張。厚生労働相の坂口力(公明党)がこれを公式に認め、油症対策の前進につながる突破口が開かれた。忘れられかけていた「油症」に、再び光が当たった瞬間だった。
下級審判決を受け国が被害者に支払った仮払金をめぐる返還問題についても、公明党の強力な推進で07年6月、返還免除の特例法が成立した。そして、今年の8月29日。坂口が会長を務める超党派の国会議員連盟がまとめたカネミ油症救済法が、参院本会議で全会一致で可決、成立。健康実態調査への協力金などで年24万円が支給されることになった。 - 民主、法制化断念へ
- 法制化への道のりは険しかった。それは、かたくなともいえる国の姿勢にあった。
「国に責任はないのに税金を投入できない」「ほかの食中毒も国が救済しなければならなくなる」。こうした国の抵抗に民主党が法制化を断念する姿勢を示し、法案は一時、宙に浮く。だが坂口らは救済法を強く望む被害者のため、一歩も引かなかった。坂口は「将来にわたり確実に実施されるよう法律で担保すべきだ」と訴え、立法化にこぎつけた。 - 油症44年を顧みて
- 認定患者で被害者救済運動の先頭に立った矢野トヨコ(2008年死去、享年86歳)の夫で油症医療恒久救済対策協議会会長の矢野忠義(80)。長きにわたり公明党に被害の実態を訴え続けた。油症44年を顧みて、矢野は言う。「公明党の尽力がなかったら、被害者の政治救済の実現はなかっただろう」
救済法成立を見届けた矢野は8月29日夕、衆院議員会館に坂口を訪ねた。矢野の謝意に対し、坂口は答えた。「みなさんの闘いが、周りを動かしたんですよ」。そしてこう続けた。「これで亡きトヨコさんとの約束は、すべて果たすことができました」
矢野は帰宅後、真っ先にトヨコの霊前に端座し、線香を手向けた。「公明党を信じ、救済の一切を託してよかった」。一筋の涙が矢野の頬を伝わった。
【文中敬称略、肩書は当時】
2012年11月6日付 公明新聞