救急救命士の創設
救えるはずの命を救え!
国民の「切なる願い」を制度化
その瞬間、看護師が大声を上げて部屋に飛び込んできた。
「先生、急患です! 1.2歳(1歳2カ月)。男児。DOA(心肺停止状態)!」
1989年10月18日。救急医療の実情を聞くため、東京都文京区の日本医科大学救命救急センターを訪れた公明党参院議員の常松克安が、担当医の助教授・山本保博と挨拶を交わした直後だった。
救急隊員に抱かれた男児は既に呼吸が止まり、顔色も土気色に変わっていた。常松は山本の袖にすがりつく1人の婦人を目にした。「この子を、この子を助けて!」。男児を背負って自転車に乗っていた時、交通事故に遭った祖母だった。
幸い、男児は一命を取り留めた。だが、既に欧米では行われている搬送中のパラメディック(高度な応急処置)を許されていない救急隊員は、ただ一刻を争って病院へと急ぐしかなかった。こうした最中に尊い命が失われる悲劇はあまりに多かった。
この時、常松は固く心に誓った。「救急医療に命をかけよう」と。
常松の闘いが始まった。救急医療の実態を探れば探るほど、いの一番に“現場”に駆けつける救急隊員の処置に『命の分かれ目』があることを知らされた。
男児の事故の翌月の参院決算委員会。常松は、救急隊員にパラメディックを認める制度の導入を迫った。だが、医師法の壁は厚く、思うような答弁は返ってこなかった。「絶対に諦めないぞ」。常松は現場の救急隊員の声を聞くため、救急医療に力を入れている全国29カ所の消防署を短期間で回った。救急隊員の全国大会へも足を運んだ。
そんな常松を「歩く救急車」と揶揄する議員もいた。常松は微動だにしなかった。
そして迎えた90年5月28日の参院予算委員会。常松は除細動器、気道確保器など救急医療器具を持ち込み、パラメディック制の導入を再び迫った。
「搬送中、止まった心臓に電気ショックを与えれば、30%は救命率があるとの医学的な報告書がある。助かる命が助からないのは人命軽視にほかならない!」。常松の気迫に、ついに自治相は「パラメディック導入は緊急の課題として必要であろう」と認めた。
救急救命士の誕生に道が開けた瞬間だった。
91年4月、「救急救命士法」が成立。翌92年4月には国家試験が実施され、3177人の救急救命士が誕生した。
医師の指導の下に認められたパラメディックは当初、除細動器の使用、器具を使った気道確保、静脈路確保などだったが、3回の法改正で、薬剤(アドレナリン)の投与も可能になった。
06年4月現在、全国の救急隊の82%にあたる3939の救急隊に1万6468人の救急救命士が配置。日々、彼らによって、多くの尊い人命が救われている。
文中敬称略、肩書は当時
2007年2月23日付 公明新聞