老いが肯定され、受け入れられる社会を構築
先日、友人のお父様が亡くなられたとの訃報が届いた。
その方は普段からとても社交的なお元気な方で、
先月、地域の高齢者サロンでお目にかかったばかりだった。
最後まで楽しく暮らし良かったと思うが、
急にいなくなってさみしいと友人が語っていた。
私は元気な友人のお父様をうらやましく思っていた。
実は私の母は今、介護度5で全介助の状態が2~3年ほど続いている。
今まで出来たことが出来なくなる切なさを味わい
自分でできればいいのにといつも悔しそうにしている母。
食事、排泄、お風呂、はては、喉が乾きお水が飲みたいと思っても
人を呼び、人のお世話になるしかない。
その不自由さを見ていて私まで切ない思いになっていた。
弟家族と父が母の面倒を見ていてくれるが
私も何か出来ることはないかと毎日通い、
おむつ交換や話し相手をしている。
母は昔から良く働く人で、負けず嫌いで努力の人でもあった。
世話好きで近所の高齢者のお宅に通い、お世話をしていた。
持病さえなければもっと元気でいられただろうと
残念に思いながらの介護であった。
でも友人の言葉で生きていてくれる事に感謝できるようになった。
身体は弱っても、相変わらず親として子どもや孫の心配をしてくれる。
睡眠はちゃんと取っているのか。
身体を大切にしないといけない。
無事に帰って来るまで心配だ。
その言葉を笑顔で聞けるようになった。
そばにいる時間を大切にしようと思えるようになった。
私が疲れた時は母のベッドに潜り込んで
横になりながら話し相手をしている。
昔、お母さんと~をしたとか思い出話が主だけれど
自分の事を振り返って見るいい機会になった。
超高齢社会を迎えて、健康寿命の延伸が大切だと思い
高齢者の方にお元気でいていただく事業を推進してきたが
それでも人間は老いてやがて死を迎えるのは避けることはできない。
近代社会になり、人間への評価は
「何が出来るか」「何をしてきたか」という観点が優先されるようになった。
とすると、老いは昔出来た事が出来なくなり
価値がない存在とされてしまうのではないだろうか。
私も含めてその価値観を見直していかなければならない。
ある社会学者の見解が非常に納得できたのでご紹介する。
かつては、場数を踏んでいる経験者である高齢者は
智慧や技があり尊敬されていた。
それが今の評価では老いには価値が見いだせないこととなってしまう。
老いが肯定され、受け入れられる社会を構築しなければならない。
中略
老年とは家族、友人などの死別を数多く体験し悲嘆にくれるが
死を覚悟し、自然の摂理に従い、生命に定められた限界に従って
精神的に円熟した残された日々を過ごす時期なのである。
文京学院大学 小田博明教授
毎日を父や母が笑って暮らせるように
生きてて良かったと言えるように
なんとか(笑)努力していきたい。