米子市議会 安田篤

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国史跡 米子城跡を紹介します

情報提供 / 2019年6月25日

 

西伯耆の拠点的な城であった米子城は、山陰で最初に築かれた近世初期の城郭です。
天守のあった標高90メートルの湊山は、北側に丸山、東側に飯山、さらに南西側には中海という天然の要衝を擁する地で、この城山を内堀で囲み、さらに外郭に武家屋敷を配し、外堀を巡らせるという、典型的な平山城の特色を備えていました。

湊山頂上には、四層五重の天守閣と四重櫓という大小2つの天守が、華麗に連なっていました。
江戸時代に発布された「一国一城令」の下、例外として存続を許された「支城」と呼ばれる城のなかで、このような天守をそなえたものは全国でも稀です。
城の建物は、ほとんど姿を変えることなく、明治にいたるまでその偉容を誇りました。

その城の建物は残っていませんが、石垣や礎石などは城郭の形態をよくとどめ、その構造を知ることができる城跡として重要です。また、米子城に関する文献・絵図資料なども数多く、良好な状態で伝えられています。
そのため、平成18年1月26日、米子城跡は国史跡に指定されました。

時代は慶長6年(1601年)、このときわずか12歳の中村一忠は、父・一氏が関ヶ原の合戦で功績をあげたことにより、伯耆国の城主として十八万石を与えられました。吉川広家が天正19年(1591年)に築きはじめた城を、中村一忠が完成させたといわれています。こうして、米子城を中心とする新しい地域が繁栄するようになりました。

在りし日の米子城

しかし時を経た明治の初め、米子城はわずかな金銭で売却され、取り壊されるという運命をたどります。
城跡は現在、市民の憩う公園となり、米子市街や中海を眼下に従えて、島根半島や大山までもが眺められる天守台は絶好の展望地となっています。
志し半ばで20歳の生涯を終えた若き城主は、山陰随一とうたわれた我が名城の、石垣だけを残す姿を知るよしもありません。


【写真:城山上空から米子市街・大山を望む】

現在、内堀から内部は、飯山と湊山の一部を除き、「湊山公園」となっています。
また、城山一帯には、市街地に残る数少ない貴重な自然が保護されており、多くの動植物に接することができます。
城山はウォーキングコースとしても市民に親しまれ、ふもとから約15分の頂上から望む大山、日本海、島根半島、中海は絶景です。

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【参考資料】

新しいウィンドウで開きます  米子城跡リーフレット
PDF 1.60メガバイト)
新しいウィンドウで開きます  米子城パンフレット
PDF 3.98メガバイト)