「引揚船 コレラ事件」で亡くなった2000人の復員兵

悲劇の歴史を断じて後世にー。

ー「浦賀引揚記念の碑」が完成!ー

第2次世界大戦後に、海外かろ帰還する復員兵を乗せた「引き揚げ船」でコレラが発生し、多くの人々が祖国の土を踏むことなく亡くなった歴史を後世に残そうと、横須賀市は平成18年10月7日、来年の市制100周年事業の一環として「浦賀港引揚記念の碑」を建立しました。

10月7日は、1945年に同港に最初の引き揚げ船「氷川丸」が到着した日。

当日は、浦賀港を望む西浦賀みなと緑地(同市西浦賀町)で除幕式が行われ、板橋まもる市議会議員をはじめ、多くの代表メンバーが参加しました。

 

【時代状況】

当時、全国12力所の引き揚げ指定港の一つとなった浦賀港。中国や南方諸島などから56万人以上の軍入や一般邦人が同港に帰還した。1946年春、中国・広東省からの引き揚げが始まると船内にコレラが発生。感染者の乗る船は、コレラ船と呼ばれ、24隻すべてが同港に集められた。駐留米軍は感染者の上陸を禁止するなどの措置を取り、コレラ船は検疫のため数ヶ月間、停泊を強いられた。

陸から隔離された船中は、食料の不足や病状の悪化から暴動が起きるなど混乱。その中で、故郷を目の前にしながら多くの人々が次々とコレラに倒れていった。コレラによる死亡者は約2000人。 当時同市久里浜にあった旧海軍対潜学校・久里浜検疫所の関係者が供養塔を建てたが、その後同地が久里浜少年院として使用されるようになったため、立ち入り が難しくなっていた。また、当時を知る人も時代の流れとともに少なくなり、コレラ船の歴史と供養塔は、広く知られる存在ではなくなっていった。

 

【体験者の思い】

同市に住む佐野辰男さん(当時85歳・故人)は、コレラ船で中国・広東省から引き揚げてきた1人だ。46年4月から6月まで浦賀沖にいたという。「あれは本当に悲劇だった。みんなとにかく陸に上がりたい一心だった。」と当時を振り返る。

供養塔の現状を知った佐野さんは「無念の中で倒れていった同僚がかわいそうだ。これではどこでだれが亡くなっていったか分からない。供養塔が広く後世に伝わるようにしたい。」と決意。供養塔の移設を目指して取り組むが難航した。

悩んだ末に佐野さんは2002年、知人を通じ横須賀市議会公明党の板橋まもる議員に相談。板橋市議は「亡くなった方々の供養塔が人目につかない場所にあっては申し訳ない。また、次世代にこの歴史を伝えていく義務がある。」と事実関係の調査などに着手した。

 

【板橋市議の取り組み】

2003年6月、板橋市議は 佐野さんとともに供養塔の移設と、コレラ船の悲運の歴史を後世に伝えるための『碑の建立』を市に何回となく要望。市側も供養塔の移設へ向けた調査を行った が、大谷石でできた供養塔は老朽化が激しく、そのままの形で移設することは難しい上、移設後の管理をどうするかなどの難問を抱えていたため、移設ではなく 碑の建立を、市制100周年事業の一環として検討すると回答。 その後も市議会公明党は予算要望などを通じて、早期建設を求めてきた。

除幕式後に、佐野さんは板橋市議ととともに供養塔を訪れ、「私の思いを受け止めてくれた板橋市議のおかげで、ここまできた。」と亡き同僚に報告するとともに、「これで1歩前進。次は供養塔の移設を生きているうちに成し遂げたい。」と感慨深く語っていた。

【その思いが国会へ】

その後、板橋まもる市議は「コレラ船の悲劇について後世に伝えるための記念碑はできた。次は、供養塔の移設を実現すること。そもそも、お国のために亡くなった方々への慰霊の供養塔であり、移設は国の責任で何としても実現してもらいたい。」と地元の古屋範子衆議院議員に相談。古屋議員も電光石火の如きスピードで、この問題を厚生労働委員会で取り上げ、柳沢大臣に直訴する形で、質問して下さいました。(その議事録は後日掲載します。)

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横須賀市 板橋衛
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