公害国会から50年
公明新聞/産業と環境の調和を大幅に改善 法政大学名誉教授 永井進氏
“今から50年前の1970年、公害は日本における最大の社会問題であった。1960年代の高度経済成長期、全国総合開発計画に依拠して、石油や鉄鋼を基軸とする重化学コンビナートが主に太平洋岸に集中的に整備され、四日市、川崎、尼崎などの工業地帯の周辺地域住民に喘息などの大気汚染被害が広がった。
また、工場汚水による水質汚染が進み、水俣病、イタイイタイ病などの深刻な健康被害が発生した。マスコミでは「カラスが鳴かぬ日はあっても、公害が取り上げられない日はない」という状態であった。
1970年の“公害国会”(第64回国会=同年11月24日召集)では、「産業と環境の調和」条項が記された1968年の旧公害対策基本法が大幅に改正され、大気汚染や水質汚染などに関する14の公害対策法が一挙に成立し、71年に環境庁(後に環境省)が新設された。
1972年、国連環境会議がストックホルムで開催され、生態系の危機、地球環境問題とともに、日本では、環境汚染というよりも人間の健康被害や生活環境の破壊という公害が発生していることが議論された。
1973年、公害健康被害補償法が成立し、被害者救済とともに、公害に対する規制の強化、公害防止投資などの環境対策が始まった。その後、大気汚染の原因が産業界から、都市の自動車交通に広がり、1978年には自動車から排出される汚染物質を10分の1に削減するという日本版マスキー法が導入され、エコカーが普及する契機となった。
また、都市のごみ処理問題から、電気製品等のリサイクルや省エネ商品の普及が広まった。こうした展開によって、大気や水質の環境基準等が徐々に満たされ、深刻な公害は改善されたが、一方で、アスベスト公害の救済の遅れや、自然環境の保全、環境アセスメントなどの予防措置を伴う対策は不十分であった。
地球環境問題は、大気中の温室効果ガスの増加による平均気温の上昇を、産業革命以前に比較して、1・5度以内に抑制して、地球の生態系、異常気象などの弊害を防ぐというものである。
このため、国連は、1992年に、ブラジルのリオデジャネイロで地球サミットを開催し、気候変動枠組条約を採択し、世界の国々が一体となって、大気中に放出される温室効果ガスを削減し、気候変動を防ぐ取り組みを行うことになり、毎年、世界各地で条約を批准した国々が集まることになった。
そして、1997年、京都市で行われた気候変動条約第3回締約国会議(COP3)の京都議定書で、温室効果ガスの拘束力のある削減値が、歴史上、初めて決定され実施された。
同会議では、先進国と後進国との間で、一律の削減率を設定するのは困難であるところから、京都メカニズムという、共同実施、クリーン開発メカニズム、排出量取引などの各国間の協力体制を制度化し、効果を上げた。
■温室効果ガス「実質ゼロ」へ
その後、2015年のCOP21会議で締結されたパリ協定(165カ国)では、各国は、2020年以降の温室効果ガスの削減目標と達成年度を宣言し、その進行状況を専門家がレビューすることになった。
日本では、10月末に、菅首相がパリ協定に従って「2050年までに温室効果ガス実質ゼロ」にすることを宣言したのである。
■70年代の経験を生かし温暖化対策を
地球環境の温暖化は、すでに、異常気象などによる被害が生じているが、今後、このパリ協定に従って、各国は、目標に至るプロセスを明示していかなくてはならない。
今後、日本社会は、70年代の公害の経験を踏まえ、再生可能エネルギーの拡大、産業界における脱炭素のプロセス、省エネルギー都市生活の構築など、ESG(環境・社会・企業統治)の目標とともに、社会を変革していかなくてはならない。”


