紙芝居
公明党百人町・大久保支部の地域で、皆様と共に活動する「野もと あきとし」の生い立ちや、人生経験、そして議員活動を知っていただくために、紙芝居プラス写真の「野もと あきとし」物語を作りました。どうぞご覧下さい。
「野もと あきとし」は、昭和48年5月24日、静岡県静岡市で生まれ、小学校1年生から熱海で育ちました。父親は病気のため思うように働けず、母親は、観光ホテルのマッサージ師として深夜2時3時まで働き、彼と弟・妹の3人兄妹を育ててくれました。「母は一家の 太陽であれ」との言葉を胸に、いつも笑顔で、グチをこぼすこともありませんでした。この母親のおかげで、3人兄妹は元気に成長することができました。
母親は、長男である彼をけっして子供扱いせず、社会の色々なことを教えてくれました。家計簿を見せてくれ、どう計算しても足りない生活費のことや、「子供が うるさい」との理由でアパートを追い出される時も、家庭裁判所に家賃を払いに連れて行ったりして、社会勉強をさせてくれました。
体を動かすことが大好きだった彼は、中学ではバレーボール、高校ではラグビー部に入り、活躍しました。
「野もと あきとし」は、ラグビーの「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という精神を学んだスポーツマンです。
高校卒業後、上京。新宿区荒木町の新聞販売店の新聞奨学生として大学受験のため予備校に通いました。
芝浦工業大学の工学2部に合格してから2年間、東京駅近くの販売店で働きながら大学に通った後、また新宿に戻ってきました。
そうしたある日、「野もと あきとし」は東京での生活に流されている自分を見つめ直すために、北海道に旅に出ることにしました。
北海道でも住み込みで新聞配達の仕事をします。トラブルがあって謝りに行き、町内でも有名なガンコおやじと出会います。
そのガンコおやじも、彼が誠実に対応するうちに打ち解(と)けて、「貧乏・辛抱(しんぼう)・希望」だよと言って励ましてくれたり、「親を大切に」と教えてくれたりしました。
こうした温かい人との出会いを通して、前向きな自分を取り戻した彼は、新宿に帰ります。
その後も多くの困難に直面しました。学費が払えずに大学も除籍になりそうになったこともあります。
しかし、自分に負けないで、7年半かかって大学を見事に卒業しました。
世界を舞台に活躍したいという志を持っていた彼は、大学を卒業して、ビルの管理会社で2年間働いた後、青年海外協力隊に応募します。アフリカのマラウイ共和国という国で、理数科の教師として2年間ボランティア活動に励みました。
マラウイ共和国の学校では、机や椅子が不足しており、教科書を持っていない生徒が大半でした。また、教室が足りなくて外で授業をするクラスもありました。生徒達は学費が払えずに次々と学校を辞めていきます。開発途上国の現状を痛いほど感じました。
「野もと あきとし」は、児童養護(ようご)施設の学習ボランティアや知的障害者の自立支援の活動などに関わり、また、青年海外協力隊員としてアフリカで活動した経験などから、「人と人との支え合い」の大切さを実感しています。
人と人とが支えあう、「共生」の社会を作るには、政治の役割が大に重要です。「野もと あきとし」は決意しています。「生活者の身近にあって生活者のために戦う公明党の一員として、しっかり頑張って参ります!」と。
そして、平成19年4月に初当選して、8年間で3600件もの区民相談を受け、高齢者・障がい者福祉の充実や子育て支援、地域の課題など全力で取り組んできました。
野もとあきとしの実績ですが、例えば、公明党が推進した交通バリアフリー法により、JR大久保駅のエレベーター設置を実現しました。JR新大久保駅のバリアフリー化については、駅舎の建替えも含め、早期実現に取り組んでいます。また、都営百人町4丁目の皆様からのご要望を受けとめ、西戸山生涯学習館前に坂道の休憩場所としてのベンチ設置や第5アパート前に郵便ポストの設置を推進しました。
さらに、野もとあきとしは、特別養護老人ホーム・障がい者支援施設「新宿けやき園」の開設を推進して、多くの高齢者、障がい者の方々に喜ばれています。また、放置自転車で悩んでおられる皆様方のお声を受けとめて、自転車駐車場の整備を推進してまいりました。
こうした取り組みと実績をより多くの皆様に知っていただきたいと、この8年間で街頭活動1900回を達成しました。
すぐに現場に駆けつける、皆様のお声に誠実に耳を傾け的確に行動する、野もとあきとしは、「区民相談 第一! 一人の声に真剣!」をモットーに今日も皆様のもとにお伺いします!
製作:公明党百人町・大久保支部青年局有志