Archive for 2015年 8月 3日

❒聖教新聞:2015年8月2日号…より転載!

 

夜空の星にも、人にも、寿命がある。人生の幕が下りる時、私たちはどんな光景を「見る」のだろうか。

 

 体から離れ、横たわった自身を見下ろすうちに、さらに上昇して、建物も町も小さくなり、地球の丸い輪郭が見え始め、そのまま銀河の中心へ向かって飛んでいき、やがて星々に見守られた、穏やかな空間に出る――1983年に公開されたSF映画『ブレインストーム』は、一人の科学者が体験した「最期の旅」を、そう描いてみせた。

 

 日蓮大聖人は「(臨終の際)一仏二仏ではなく、千仏までも来迎し、手を取ってくださるとは、感涙をおさえがたい」(御書1337ページ、趣意)と記された。千の仏に迎えられる――それは無数の星々に見守られた状態のようにも思える。「荒海や佐渡によこたふ天河」とは芭蕉の句だが、実際、佐渡の地で、この御文を認められた大聖人の庵の上にも、数え切れない星々が輝いていたに違いない。

 

 「私たちの生命は、死後、宇宙に冥伏する、溶け込むのだ」と、易しく論じたのは戸田城聖第2代会長である。宇宙の99%以上は生命の存在できない暗く冷たい空間だが、そこに郷愁を感じるのは、星々の海原こそ私たちのふるさとだからだろう。

 

 だれもが、かつては宇宙の星だった。生命の体をつくる原子は、星々が生と死を繰り返すなかで生まれたもの。事実として全ての生命は「星の子」であり宇宙は大いなる「母」である。

 

 生命が生まれ、還っていく「母なる宇宙」。そこに思いを巡らせるとき、人は、いのちの尊さと絶対的な平等を体感してきたはずだ。この数世紀、都市が発展して夜空に人工灯があふれ、星々の影が薄くなっていったことと、〝死を忘れた〟生命軽視の風潮が地球を覆っていることは、決して偶然の一致ではないように思われる。今こそ取り戻すべきは、「星空を見上げる文化」ではないだろうか。

 

 先日、米航空宇宙局は生命が存在するかもしれない「地球のいとこ」なる惑星を発見した。光の速さで向かっても1400年かかる距離にある。大宇宙には生命を宿した星が無数にあるはずだが、いまだに、私たちが交信できた文明はない。それは互いの距離が遠いことと、その星の文明に寿命があることも原因だ。「地球人よ、戦争と環境破壊で文明を終わらせてしまうのか。それとも宇宙の模範となって栄えゆくのか」。見上げる星々は、そう語り掛けているように思えてならない。

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