みさこ物語
子どもの頃
兄が二人いて末っ子だった私は、とにかく元気で活発な子どもでした。女の子らしい遊びをしたことがなく、かくれんぼ、下駄隠し、ターザンごっこ・・・日が暮れるまで外で兄や近所の子達と遊んでいました。(*^。^*)
父の体が弱く、母が和裁で家計を助けていました。仕立てた着物を近所の呉服屋へ届けるのが私の役目。お店の奥さんに、「だーちん」として半紙に包んだお菓子を頂くのがとても楽しみでした。
お金はありませんでしたが、愛情たっぷりに育てられました。
田上先生
小学校5,6年の担任だった田上先生のおかげで、今の私があると言っても過言ではありません。きちんと教育をして下さる先生でした。特に、「本読み」は標準語の発音を指導してくださり、おかげで本の朗読が大好きな少女になりました。
中学生の頃
中学では、テニス部に入りました。レギュラーではありませんでしたが、3年間部活を続けました。腕立て、腹筋100回なんて筋トレしていたのに、あの筋力は今どこに・・・
運動会の練習で、クラス総リレーがありました。クラス全員が走るのですが、人の良い私は休んでい る人や調子の悪い人の分まで走り、おまけにその日は朝食抜き、給食のパンも食べなかったので、低血糖を起こし倒れてしまいました。救急車もなく、なんとパ トカーにのせられ病院へ運ばれ、ブドウ糖の注射で目が覚めました。
高校生の頃
県立生駒高校へ進学しました。結構高台にある学校で、階段がきつくて3年間通っても慣れませんでした。校門の前の坂が傾斜が急なので、「生駒おろし」が吹きすさぶ寒い朝は、必ず誰かが「すってんころりん」ところんでいました。
部活はなんと、「新聞部」。ほとんど帰宅部でした。
進路のことでかなり悩みました。私には夢がありました。それは、「小学校の先生になりたい!」 しかし、経済的に私学は無理、学力的に国公立は無理。でも、夢をあきらめたくない。担任の高岡先生が、「やるだけやってみ。」と背中を押してくださいました。祈 り、勉強しました。忘れもしません3月1日の卒業式が終わり、帰宅して仏壇の前に座り、祈っていたら「受験しよう!と思わなかったら、これだけ祈れただろ うか、これだけ勉強できただろうか。逃げないで挑戦してきてよかった。」と感謝の涙が止まりませんでした。
結果は不合格でしたが、心晴れ晴れと王寺町役場に就職しました。
社会人の頃
祈って決まった職場です。本当に皆さんに守られて働くことができました。最初は、保健衛生課に勤務。小学生から「注射のお姉ちゃんや!」といわれました。
4年目から、総務課に異動しました。総務課では、電話交換の仕事があります。「役場の声の玄関」と の思いで、真剣に祈りながら取り組みました。おかげさまで、相手の方から誉めていただくようにもなり、地方紙ですが新聞にも載せていただきました。総務課 勤務のおかげで、和文タイプ、ワープロ、アナウンス〈声の広報など、町の広報全般)などをさせていただき、自分の可能性を大きく引き出すことができたと感 謝しています。
私が私らしく輝いて生きていけるようになったのは、いつも、励まし、慈愛につつんでくださる人生の師匠をもつことができたからです。
無我夢中の日々
昭和58年結婚。2男1女の宝物を授かり、3倍人生を楽しめると子育てしてきました。(いえいえ子ども達が親を育ててくれたのです。)
義祖母、義父の介護、義母の交通事故など様々な山もありましたが、全て自分の成長の糧となりました。
私のモットーは 「愚痴を言わずに 笑顔で前進!」
好きな言葉 「心こそ大切なれ」
平成16年4月、初当選させていただきました。私にとっては、議員バッチよりも皆様のご支援が何にも変えがたい勲章です。「大衆とともに」との立党精神を命に刻み、もっともっと力を付けて皆様のお役に立てるよう、全力投球で頑張ります!