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公明党広報
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川口市 萩原一寿
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3文明6月号で伊藤真氏(伊藤塾塾長/弁護士)の記事を掲載します。

「解釈改憲」は憲法違反である

 今、憲法の解釈を変更することでの集団的自衛権行使の容認が問題となっております。その問題が語られる時、「解釈改憲」という用語が使われます。そのような概念はそもそもありません。憲法を変えるのは憲法96条の手続きに則って行うべきです。憲法を変えるにはこれしかあり得ないのです。

 メディアの報道につられて、憲法改正には二種類あり、明文改憲(正規の手続きによる改正)と解釈改憲があると誤解されている方がいます。憲法を変える手続きは、憲法に定められている以外にあり得ません。「解釈改憲」は明確な憲法違反です。

ただ、憲法に許されている範囲内での解釈変更は、これまでもなされてきました。つまり、解釈の変更ではなく、実態が大きく変わったことを踏まえての「あてはめ」の変更です。しかし、許されないことまで解釈を変えて認めることは、なされませんでしたし、あってはならないことです。解釈の変更で憲法の許容範囲をこえたことまで認めることは絶対に許されません。政府もこれまでそう言ってきたのです。

 世界に誇れる平和憲法という「日本ブランド」

 世界の憲法と比べ、日本国憲法には大きな特徴があります。それは、個人の人権を守るために憲法で国に縛りをかけることに加え、平和の実現のために国に縛りをかけている点です。

 世界の憲法において平和条項や侵略戦争放棄を定めている国は150国ほどあります。ところが日本は憲法第9条2項において、正規の軍隊を持たず、交戦権も否認しています。言い換えれば「自衛戦争さえしない」と宣言しています。紛争が起こっても軍事力で解決することはしないと、徹底した平和主義を立憲主義の目的に追加しているのです。この平和実現のために国を縛るところまで踏み込んでいる点が重要です。

 戦後の日本は、正規の軍隊を持たず海外で武力行使しないことを維持しながら、日本のかたち、国柄が形成されてきたのです。私は、これを「日本ブランド」と呼んでいます。平和国家というブランドは、何も勝るものです。貴重な勝ちです。

 日本国憲法成立後、政治家もアメリカとのやり取りの中で平和国家を維持してきました。最低限守らなければいけない、ぎりぎりのところを憲法9条2項のもとで国を運営してきました。この先人たちの努力のたまものとして日本は、平和国家として認知され、信頼される国としてブランドが構築されたのです。それがゆえに、外国において何か対立が生じたような場合にも中立な立場で仲介や戦後の復興支援活動をしたり、さまざまなNPO・NGO活動を世界各地ですることができています。平和国家日本のブランドがあるからこそできることです。

 諸外国からみたら「日本はアメリカやイギリスと違う。あれだけの経済大国なのに正規の軍隊を持たず、海外で武力行使しない」という信頼が根付いているのです。そうしたブランド価値を築き上げてきたのが日本です。

 集団的自衛権を認めてしまうと大変なことに

集団的自衛権行使容認は、本来、憲法によって縛りをかけられる政府の側が、閣議決定という手法で、縛りをなくすことを意味します。
 しかも、国民の意思を問うこともなくです。集団的自衛権行使を容認するというのは、憲法の存在そのものを否定することです。

 また、国内的にも問題があるのみならず、国際的にも、これまで集団的自衛権は、憲法上行使できないから、海外派兵はしないとしてきたことが誤りだったと宣言することになり、新たな問題が生じます。
 これまでは、憲法9条2項があり、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争にも日本は参加しませんでした。また、そのことが、国際的にも認められていました。それなのに、これまで戦争に加わらず、間違いを犯していました、と諸外国に謝罪することはは、国家としての体をなさなくなります。
 すなわち、解釈の変更によって集団的自衛権行使を認めることは、憲法を無視することであり、国際社会において恥ずかしく愚かなことです。
 もし、日本がベトナム戦争に参加していたらどうなっていたでしょう。韓国軍はベトナム戦争でおおむね5000人の兵士が戦死 しています。また加害者にもなっています。日本が参加していれば、それ以上の日本人が命を落としていたかもしれませんし、加害者にもなっていたでしょう。

 「戦争ができない国」から「戦争ができる国」に変えようというのが集団的自衛権行使の容認です。「戦争ができる国になったとしても、条件を厳しく設定してむやみに戦争はしない」と言う人もいます。でも「できない」と「しない」は大きく異なります。憲法は、海外で武力行使することは一切禁じています。
「戦争はできない」のです。限定的でも集用的自衛権の行使を容認したのなら、「戦争ができる国」になってしまいますが、そのことは決して忘れてはいけません。
 国連憲章で集団的自衛権を認めているからといって、それを日本国憲法でも認めたとするなら、それは国連憲章と同じことになり、憲法9条2項の存在意義がなくなってしまいます。憲法9条2項の戦力不保持と交戦権否認は、国連憲章を超える厳しい平和主義の宣言なのです。

 ただ、これまで、日本国民の生命・財産を守るという国家の責務を果たすための必要最小限の実力行使を、例外的に許すものとしての自衛権を有すると政府は解釈してきました。しかし、それは自衛戦争ではありません。あくまでも日本国民の生命・財産が侵害されたときに、他にとるべき手段・方法がない場合に必要最小限度の実力行使しか許されない、とするのが憲法の趣旨です。
 私たちは、集団的自衛権を行使するとなったとき、外国の戦争に巻き込まれるとともに、相手の国から日本が攻撃の対象となることをイメージしなければなりません。現代では、テロ行為の標的に日本もなることを意味しています。
 また、同盟国から軍事行為への協力を要請されたとしても、断ることができるという考えもあります。しかし、アメリカとの信頼関係を維持するために集団的自衛権行使を認めようと主張しているのですから、そのアメリカから要請され、それを断ることは、最も信頼関係を破壊することになります。これまでは憲法9条2項があり、「戦争に参加できない」という拒絶の正当な理由がありました。
 つまり、日本の国益を考えて同盟国からの戦争参加要請を断るというようなことは、事実上できず、日本が望まぬ戦争に巻き込まれざるを得ないことにつながります。

公明党と市民に大きな期待を
 この誤った動きを止められるのは公明党しかないと思っています。
 与党のなかでの公明党の存在意義は大きく、譲れない一線を守ってもらいたいと願っています。公明党の原動力は、市民のみなさん、創価学会の方々の平和への思い、今までも日本国憲法を大切にしてきたことです。政治家のみなさんの力は、その背後にいる市民の思いです。

 たとえ限定的なものでも集団的自衛権を認めてしまっては、この国のかたちが変わってしまいます。「平和憲法を掲げる日本」と胸を張れなくなります。今回だけは、公明党が平和を守る党として、この暴挙をくい止めていただきたいと思います。
 そして、市民は声をあげるべきです。マスコミへの投稿もいいでしょう。政治家に手紙を書いたりメールを送るのも有効です。市民の力は偉大です。
 ぜひ、一人ひとりが、平和国家日本を大切にしていくことを強く願います。

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