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公明党 横浜市会議員(青葉区) 行田朝仁 (ぎょうた ともひと)

体質に苦悩、そして生卵について 3008

未分類 / 2015年1月31日

CAM00107 (6)雪も舞う季節。積もらなくてよかったですが、体調管理にお気を付け下さい。

昨日も終日予算研究会。港湾局、道路局、経済局、温暖化対策統括本部・環境創造局、健康福祉局の予算案についての説明及び質疑応答。

今月の日経新聞「私の履歴書」は福岡ソフトバンクスホークスの王貞治会長。思い込みは良くないもので、元々ファンではありましたが、この1か月読んでいまして、私のもっていた王さんのイメージと、事実は結構異なっていたことを知りました。実直な人、努力の人、そんな印象を改めて強くした1か月でした。

特に印象に残ったのが26回目の「体質に苦悩、そして生卵」。最後の方の王さんの苦悩。グッとくるものがありました。

「パ・リーグの雄となり、巨人の監督に復帰した長嶋茂雄さんと日本一を争おうではないか――。夢物語のような話だったが、ホークスの誘いは条件といい、タイミングといい“ツボ”にはまっていた。

 「生涯巨人」の思いを断ち、心機一転を図るには絶好だった。これがもし、巨人と同じ東京ドームを本拠としていた日本ハムなど、在京球団であったら指揮を執るのもはばかられたと思う。ホークスがパ・リーグの球団であり、しかも本拠地が福岡で、巨人から最も遠いのがよかった。

 そして私自身、もう一度あのゾクゾクする勝負の世界に身を置きたい、という気持ちを抑えられなくなっていた。

 オーナーの中内功さん、ご子息の正さんらと極秘に会ったその場で、引き受けることになった。家族や周囲もびっくりしていたが、誰より私自身がこの展開に驚いた。

 94年10月12日の監督就任会見で「自分の体験を若い人に伝えたい。ユニホームを着てしか伝えられないことがある」と語った。中内さんからは一言「勝てるチームにしてください」と言われていた。しかし、甘くなかった。

 95年、球団は奮発し、メジャーの本塁打王、ケビン・ミッチェルを獲得してくれた。西武との開幕戦で4番に据えた主砲は初回の初打席で満塁弾を放った。しかし、その希望の光もあっけなく消えた。故障がちのうえ、途中で帰国。37試合で8本塁打に終わり、チームも沈んでいった。

 一番の問題は「負け慣れ」だった。一時代を築いたホークスも南海からダイエーが買収したころには弱体化し、私が就任したときは17年連続Bクラスの惨状だった。

 93年に開場した福岡ドーム(現ヤフオクドーム)という立派な器に、中身がついていかない。遊びに行く選手が、練習しようとする者を引き留めるような雰囲気では勝てるわけもなく、1年目は5位。

 2年目の96年5月9日。最下位に低迷していた我々は大阪・日生球場で近鉄に敗れた。9勝22敗と早くも優勝戦線から脱落していた。帰りのバスをファンが取り囲み「王、辞めろ」のコールのなか、生卵が投げつけられた。

 なんでこんな思いをしなくてはいけないのか、という顔の選手たち。師匠の荒川博さんや東京の仲間も心配し「早く帰って来い」と言われた。

 だが、途中で投げ出すわけにはいかない。「あれが本当のファンというものなんだ。ああいう声が出ないようにするには勝つしかないんだ」と選手たちに話した」。

さすが王さん。プロの中のプロだなと思います。