袴田事件 メディアに警察・検察を批判する資格があるかについて 2702
昨日は雨のため予定されたイベントなどが中止となり、たまっていた書類の整理等をすることができました。
第二次世界大戦中、大政翼賛体制の下、戦争を鼓舞して「御用マスコミ」とされた大新聞各紙。今も新聞各紙、テレビ局をはじめ御用マスコミ化を懸念する声があります。その理由が国内の声であったり、米国の意図であったりと様々な視点があるわけですが、政治を監視する役割を持つマスコミ・メディアは、ある意味において、政治と同じく監視が必要な「権力」であり、適当に放置できる話ではありません。健全な社会を維持・発展させるためには、公正・中立のジャーナリズムを貫くマスコミの存在が強く求められます。
一方、警察・検察の捏造が指摘される袴田事件。怒りがこみあげてきます。権力による度重なる冤罪の数々。捜査の可視化、情報公開が必要だと思います。
権力とは他人を強制し服従させる力のこと。
ビデオニュース・ドットコムの記事が「袴田事件再審決定捜査情報を垂れ流したメディアに警察・検察を批判する資格があるか」と題して指摘していました。
「袴田事件のメディア報道について、どうしても拭えない違和感がある。
静岡県で1966年に一家4人が殺害された「袴田事件」で、死刑が確定していた元プロボクサー袴田巌氏の再審が決定し、48年間勾留されてきた袴田氏の釈放が認められた。
メディアは再審の決定と釈放を喜ぶ袴田氏や姉の秀子さん、そして弁護団や支援者ら関係者の喜びの声を盛んに報じている。まだ、当時の警察による捜査がいかに杜撰だったかを指摘し、刑事捜査のあり方を改めて問い直す論説やコメントを掲載したり放送している新聞やテレビ番組も多く見られる。
それらは何れも正しい指摘だと思う。しかし、一連のそうした報道から一つだけ大きく抜け落ちているものがある。今、袴田被告の喜ぶ姿や捜査の不当性をもっともらしく報道しているマスメディア自身は、当時この事件をどう報道していたのかという点だ。
残念ながら当時のテレビ報道の内容は確認できないため、当時の新聞報道しか把握できていないが、当時の新聞各紙の縮刷版を見ると、ご多分に漏れず1966年の事件当時、新聞各社はまだ捜査段階から袴田氏を実名で報道し、「血染めのパジャマ」「ジキルとハイド」「異常性格」など、明らかに捜査官からのリークと思われる情報を垂れ流していた。特に毎日新聞の突出した暴走ぶりが目についた。
こうした報道がどの程度捜査や裁判に影響したかを推し量ることは容易ではないが、少なくとも当時のメディア報道が、警察・検察側の捜査官と一体化して、事件を作っていく構図に加担していたことは、いかんとも否定のしようがない。
結果的にその捜査がこのたび静岡地裁の村山浩昭裁判長によって、「捜査機関に捏造された疑いがある」とまで断罪されたことを、メディア各社は重く受け止め、その反省を今後の報道に反映させる義務を負っているのではないか。」
公平・公正のために、権力をより厳しく監視する仕組みが必要だと思います。