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公明党 横浜市会議員(青葉区) 行田朝仁 (ぎょうた ともひと)

ロンドンオリンピック開幕!スポーツマンシップについて 2077

未分類 / 2012年7月29日

聖火がスタジアムに到着したとき、かつてのメダリストから男女7人の10代の若者へ聖火の継承。トラックを走る若者の姿にシビレました。そして彼らが最終点火者に。大きな聖火に。世界がひとつに。感動しました。

スポーツの祭典、オリンピック開幕。ロンドンオリンピックのスローガンは「世代を超えたインスピレーション」。それを象徴するかのうような新時代を開く後継者による聖火の点火。英国の力を感じました。

各国の選手、スタッフが晴々と笑顔の入場行進。国や種目などが異なっていても、目指すものは同じ。まさに世界平和の祭典。

スポーツマンシップ(スポーツマン精神)という言葉。Kotobank.jpによりますと「スポーツマンとしてふさわしい態度や精神。フェアプレーと相手を尊重し、自己の最善をつくす。19世紀末から、アマチュアリズムの理念と相まって広まった」とのこと。フェアで相手を尊重し、自己の最善をつくす。相手を思いやり、他人と自分との比較ではなく、自分自身に生きる。「足下を掘れ、そこに泉あり」とは19世紀ドイツの哲学者、ニーチェの言葉。スポーツマンシップは世界を、社会を豊かにする大きな力だと思います。

読売新聞の早稲田評論というコーナーで、早稲田大学スポーツ科学学術院の石井昌幸准教授が「スポーツマンシップとはなにか」との寄稿をされていました。未来を担う学生に送った「粋」なメッセージ。ご紹介します。

「私はここ数年、イギリスにおける「スポーツマンシップ」という言葉の語義の歴史的変遷について調べている。その結果、もともとこの言葉は、今日のそれとは違って、かなり多様な意味を持っていたことが判った。スポーツマンシップは、スポーツの語が主に「狩猟」を意味した19世紀前半の時点でも、「公正(フェア)であること」のような、今日に通じる意味をすでに持っていた。だが、不思議なことにこの語は、同時に「粋であること」のような意味も、もともとはあわせ持っていたのである。

 なぜか。それはおそらく、スポーツマンシップ(スポーツマンであること)が、本来ステーツマンシップ(為政者であること)の対義語としての含意を持っていたからである。イギリス史の本を読んでもらえば分かるのだが、彼の国では長い間「ジェントルマン」と呼ばれる伝統的な支配階級が君臨していた。彼らは基本的に地主階級で、あり余る金と時間を使って、政治や経済や司法を動かし、それ以外のときには遊んでいた。彼らのオンの場面の顔がステーツマン(治める人)で、オフの場面の顔がスポーツマン(遊ぶ人)だったわけである。スポーツマンシップとステーツマンシップは、もとはジェントルマンシップ(社会のリーダーであること)という一枚のコインの両面だったのである。だから、遊びの場面でも公正(フェア)であることと、その遊び方が「粋」であることとは、なんら矛盾なく「スポーツマンらしさ」という同じ言葉で表現し得たのだ。

 意外なことに、19世紀の新聞や雑誌の用例には、スポーツマンシップが「ルールの遵奉」といった意味で使われる例はほとんど見当たらない。しかし、それもそのはずで、スポーツマンというものは、ほんらいは為政者のオフの姿だったのだから、遊びにおいても、彼らこそがルールを創出する主体そのものだったわけである。イギリス・スポーツのルールには条項数が少ないのもおそらくそのせいで、ルールそのものは大雑把にしておいて、何か問題が起きたら当事者同士がその都度話し合って決めていたのである。スポーツマンシップに「ルールの遵奉」のような意味が入ってくるのは、主として20世紀に入ってからだ。逆に、「粋であること」のような意味は、この時期になって次第に姿を消していく。

 この流れは、スポーツが階級的に広く普及し始めるのと同時進行していて、社会全体の民主化ともパラレルであった。労働者階級が議会政治の場に進出するのと、プロ・サッカー選手が活躍し出すのは、大きく見れば同じ時期なのである。こうして、スポーツマンという言葉にも、次第に階級的な含意はなくなっていく。スポーツマンは、もはやステーツマンとは別個の存在となっていくのである。

 このことはしかし、スポーツマン(女性も含めて「人間」という意味で)が、非政治的な存在となっていくことでもあったのではないだろうか。ルールを自己決定する主体から、あらかじめ決められたルールを遵奉する主体へ。もちろん、ルールを遵守することは、市民社会を生きる上できわめて重要なことである。その意味で、スポーツの教育的価値は大きい。しかし、そもそもルールは誰が作るのか。ルールが現実に合わなくなっていたら、どうするか。

 私が現代の「スポーツ的なるもの」に、ときに不安を感じる点はそこにある。すべての人がスポーツマンたりうるようになることは、すべての人がステーツマン(意思決定の主体)になることでもあったはずだ。アスリート自身がルール決定に関わるべきだと言っているのではない。「スポーツ=遊び」には、民主的な意思決定をする練習の場としての機能が、本来あったのではないかと言いたいのである。だから学生諸君、運動部やサークル活動を通じて、相互に利害を調停し、自らの意思決定を切り出すプロセスをぜひとも学んで欲しい。そして、「粋」に遊んで欲しい。駅前で酩酊して周囲の人に迷惑をかけることは、決して粋ではない。真のスポーツマンシップとは、そういうことだと思うのである。」

がんばれ!ニッポン!