昨日、あるご家庭を訪問した際にご近所の意見として伺いました。「政治の信頼がない時代には何でも直接選挙で物事を決めるのがいいのではないか。支持率が現状を物語っている。」とのこと。極端なお話ではありますが、このお話は政治家も不要という考え方でもあります。本当にそうしろと言われているとも思えませんが、政治行政の信頼回復が重要であることは間違いありません。
只、昨今のテレビ番組に見る芸能人や文化人と呼ばれる人による「無責任な言いっぱなし」が大きく影響していると思います。しかも政治は国だけの仕組みではありません。例えば町の街づくりには住民意見の集約が必要です。そのために代弁者を選挙で選んでいるわけです。
現在の日本は「代議制民主主義」の国です。(国会だけでなく地方政治にもこの言葉を適用して打っていきます) なぜこの仕組みが出来たを理解した上で、必要とあらば革命的な仕組みの変革が必要になるのかもしれません。支持率は参考にはすべきです。只、視聴率を求め支持率を使い、客観情報の提供であるべきもので世論をかき乱すような方法は如何なものかと思います。支持率というのは、そもそもある時点の政権・政党支持率をごく一部の街の声を拾い纏めたものであり、もちろん参考にすべきものではありますが、政治の全てを動かすものにはなりえません。ましてやそれを政策にそのまま反映するという話は、別の見方をすると民主主義の剥奪にもつながりかねません。
政界を引退された野中広務氏がある本で記されてました。「世界の多くの国、そして日本が長く苦い経験を踏まえて、代議制民主主義を採用していることは、国民の代表である国会議員が慎重に審議し、その経緯をあまねく国民に伝えて、その上で、税金の使い道を決めるという手段を大事にすることが、歴史的に見ても間違いが少ないということを知ったからです。」国会に限らず地方政治も同じだと思います。「支持率だけで決まるなら、選挙も、国会(議会)さえも必要ありません。常に国民に直接聞く、直接民主主義をとればいいわけです。しかし、直接民主主義には多くの問題が存在します。目先の利益や一時の興奮で、ことが決定し、大局を見ることが出来なかったり、弱者への配慮を欠いていた政策をとったり、あるいは逆に実現できそうにもない派手な政策ばかりが指示を得たりする可能性があるからです。」
「今日のように、なんでも支持率を云々する風潮は、大局を見る政治、慎重な審議を軽視させる可能性が十分にあります。」確かにそうだなと思います。
私にはこうした傾向が、極端に短期的利益を追うようになった日本の現状とダブって見えます。国民、県民の権利・財産を守るということの手段として政治があるわけで、政治は何をしているのかを真正面から理解して頂くようにしていくとともに、苦闘の人類史の上で勝ち取った民主主義を軽視されることのないようにしていかねばならないと思っています。
公明党が政治の世界に参画したのは、昭和30年代初頭。政治が自民党か社会党かとう時代。一部の世界に属する人々だけが政治に声を届けることのできる時代でした。その時に大衆福祉を前面に掲げ、政治の世界には無縁ともいえた一般庶民の声なき声を政治に届け、庶民の政治を開始したのが公明党でした。最初は大いに馬鹿にされたものです。「素人になにがわかる」「貧乏人や病人の集まりじゃないか」と。
時代が変わり、今政権与党にあって立場も変わりましたが、行動の原点であるこの原点はいささかも変わりません。傍から見て「自民党に寄りすぎ」とか「昔と違う」といった様々なご意見があるのは理解してます。言うべきときにハッキリとさせることは当然ですし、そうしています。しかし、責任ある立場で原点を忘れず前進するということは、議論し、タイムリーに決断せねばならない立場にあるということでもあります。それが妥協といわれることもあると思います。議会制民主主義が出す結論と言うものは、数の論理(=地域代表のあつまり)である故、多くの場合には話し合いの結果「妥協」の産物になります。只、公明党が政権与党となり政治が国民のものへと大きく変革したとする政治学者や評論家は少なくありません。
これを白黒はっきりしていない、というのがマスコミの理論です。それははっきりしている方がカッコよく見えます。しかし、多くの意見を集約することにはなりません。一方、将来を考えて大局に立った判断をすることもあります。そこが選挙民に選ばれた議員の力量の発揮する場でもあります。
今日は思わず長くなってしまい、読むのに時間がかかったかと思います。失礼ました。この辺にしておきます。お疲れ様でした。
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