一年を振り返って
皆さんにとって今年はどんな年でしたでしたでしょうか?私にとってはサラリーマンから政治の道へ大きく舵を切った「変化」の年でした。この一年を振り返って感じたこと。ひとつ挙げさせて頂きますと、不安をあおるわけではありませんが、我々は日本という社会の仕組みに頼りすぎていることへの危機感でした。これまで日本人は豊かで便利な社会を追求してきた結果、本来自身、家族もしくは地域で行うべきことの大半を民間や公共サービスに委託するようになりました。昔は出生から葬送まで地域で協力して行われていました。教育も食事も排泄物の処理も自分達で行ってきました。その時代に戻るべきとするものではありませんが、人間として自分でなすべきことができなくなっているように感じます。その結果、社会を作っている途上の人間にとっては「不都合」は成長への糧であり乗り越えるべきものとして協力し、許容てきましたが、出来上がった社会にいる人間にとって「不都合」はただの面倒にすぎません。ですから忍耐力も衰えてきます。例え自分にかかわることでも原因を自分に求めることなく、他への責任を求め、白黒の結果を求める傾向があります。「自分はルールを守っていればいい。そうすれば社会は回る。」それは一面正しいですが、私はそういう考え方は「大人」ではなく、言われたことを守ることで褒められる「子供」の思考だと思います。
社会にはよく矛盾する問題が付きまといます。現在、実務だけでなくソフト面でも問題解決能力を持つ人間を具体的に求める会社は少なくありません。その昔は自分の思い通りにならないことが沢山ありました。夜になると字が読めない、人の顔も見えない。そうなると嫌でも忍耐力がついてきます。そうした環境が「大人」を作っていたのかもしれません。このような例は周りに沢山あります。私は人間の社会は常に変化の連続であり、いつまでも完成と呼べる状況にはならないと思っています。ですから常に現実に対し謙虚でなくてはならないと思っています。しかし、私達現代人は社会の仕組みを含めた文明の利器に不可能はないと思い込み、人間が作った社会の仕組みも完成した、「不都合などありえない」という幻想をみているような気がします。この感覚がモラルの低下を生んでいるようにも思えてきます。例えば「社会人として仕事(バイト)して税金納めている。なのにとやかく言われる筋合いはない。社会の問題はその担当者が解決すればいい。他人のことは関係ない」となります。人間を社会の歯車として位置付け、人間がいれば発生する「不都合」の解決などは関係ないこととなります。この思考は20代の若者に限ったことではなく、50代以上の壮年も含まれます。例えば車の運転マナーの悪さに閉口します。道を譲ってもらっても挨拶サインを出さず、当たり前の顔して通り過ぎる確信犯的壮年、婦人の多いこと。これでは若者が「知らん顔」するのも無理はありません。手を挙げる余裕がない運転手は別として、「自分はやることやってるんだから」「他人もそうだから」など、モラルを「損得勘定」するような感覚では社会を作りゆく「社会人」としては何かが欠落しているのではないでしょうか。
「他人はしなくても自分はやっていこう」という気持ち。「自分はどうするか」を考え、決めて、行動するのが「大人」だと思います。車ですれ違う互いが合図しあうだけでも人の心が潤い、心に余裕が生まれると思います。社会の仕組みを昔に戻す必要はありません。今の仕組みに足りない部分はしっかり手当てしていく必要がありますし、誤った部分は修正していく必要があります。「もう子供の世代に託すしかない」と諦める前に、現在の社会の仕組みを作る過程で「失ったもの」を、未来のために取り戻す努力をすべきではないでしょうか。そのためには大人が「大人らしく」ある社会を作る必要があます。そのひとつの方法が人をつなぐ「対話」の拡大であり、人とかかわることだと思います。私は人は一人では生きていけないとよく教えられました。私達大人に「他人を思いやる心」と「考える時間」が必要なのかも知れません。「いじめ」をはじめ噴出する社会問題解決へのカギもここにあるように思います。
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