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稲毛区 櫻井秀夫
hsakurai2016@yahoo.co.jp

Archive for the ‘8.仙台での3.11を想う’ Category

3.11に「天国に届け!ホームラン」を読む

東日本大震災から丸5年となりました。
絶望の淵にいた人から希望や夢を教わる…人生の真髄を見た気がします。
3.11で家族を失いながら、気仙沼フェニックス・バッティングセンターを建設する父子の物語。この本、意外に入手困難でした。
実在するモデルの千葉さんとの写真は、昨年秋の再掲です。ダジャレ大王の千葉さんの笑顔、感化力がすごい!

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気仙沼発!希望ののむヨーグルト

昨晩は午前様の帰宅でグッタリしそうなところ、先日ご紹介した、復興支援の「希望の のむヨーグルト」が我が家に届いておりました。
早速、750ml一本あけて、「被災地も自分もフェニックス!」との心意気で(深夜なので、手をクロスして叫んだりはしていません(^_^;))もうひと仕事こなしました。
この調子だと、すぐになくなる…

本人がフェニックス!千葉清英さん

 石巻市門脇町にある、あの有名な「頑張ろう 石巻!」の大看板。
 その脇に花を咲かせたひまわりの姿は、人々に大きな希望をくれました。その名も「ど根性ひまわり」。

 そのひまわりの種が全国に広がっています。その運動を展開し、自らも「気仙沼フェニックス・バッティングセンター」を作って、復興の先頭に立っている千葉清英さんと、本日、縁あって、懇談させていただきました。
 
 3.11の壮絶な被害、亡くなった奥様、娘さんへの想い、生き残った息子さんとの約束のバッティングセンター、まだ終わらない仮設住宅の生活、それでも従業員や地域の方々を護るために尽きることのない知慧と行動力…

 雑誌や映像(STB!)で拝見してきた千葉さんの生の若々しさ、バイタリティー、誠実さに感銘し、私も思わず個人的な心情を吐露してしまいました。
 
 シリアスな話になりがちですが、千葉さんはとても楽しい方で、そんな一面も含め、全てを夢や目標のために使い切ろうと、生き切っている姿に人間の凄みを感じました。

 千葉市稲毛区という遠いところまでお越しいただいた御礼は、いつか石巻に伺うこと、そして、あの震災を、千葉で風化させないように尽くすことだと心に誓いました。
 御縁をいただいた地域の御婦人に大感謝です。ありがとうございました!

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東北でのコトバ再考とHP御礼

ネットやSNSでの言葉の難しさを、この一週間再認識させられました。
 
 ちょうど一週間前に私は、「仙台での耳の痛い御意見」について触れました。
 それは「一言で言えば、様々な次元での「安全神話」への懐疑であり、それは、どうやって「人間を守る」のかという視点」と書きましたが、「耳が痛い」と書いたことにより、単に安保法案への賛否に関する声であると、読んだ方に思いこませてしまったようです(その思い込みを生むこと自体が、今回の議論をめぐる最大の問題点に感じます。)。
 より意図的に表現すると、この法案に賛成すれば「平和」がもたらされるという「安全神話」に対しても、この法案を廃案にすれば「反戦」になり、戦争から遠ざかるという「安全神話」に対しても、いずれにも懐疑の視線が向けられていたという実感です。(こう書くと、また誤解を招きかねないので明示すると、私は法案に賛成ですが、「平和」や「反戦」って、無関係とは言いませんが、こういう次元ではないと思っています。)
 それは、大震災や原発事故に直面し、「安全地帯」からの無責任な安全神話にはもうウンザリだ、という生々しいコトバ。
 それを、東北を過度に美化せず、謙抑的に表現したかったのですが、私が上手く表現できなかったようです。申し訳ありませんでした。
 そんな稚拙な私のホームページへのアクセス「人数」が、先日1万人を超えました。(アクセス「件数」は当然もっと多く戴いています。)
 一介の新人市議会議員、そんな素人が開設して8か月も経っていないサイトなのに、本当に感謝です。ありがとうございます(泣)
 言葉の難しさと向き合いながら、少しずつでも、確実に前に進んでいきます。今後もどうぞ宜しくお願い致します。

桜井拝

仙台弾丸単独ツアーを終えて

 全く私的な仙台弾丸単独ツアーのさなか、被災地に一瞬だけ立ち寄ることができました。
 現在、被災地と言えば、当然、福島県や岩手県沿岸等が取り上げられますが、普通に都市生活を営んでいる印象の仙台市内でも、昨年末の段階で7千世帯以上の方々が、プレハブ仮設を始め、応急仮設住宅に入居されている状態です。

 そして、たった2年しかいなかった私が言うのもおこがましいのですが、在仙当時に日常的に買い物等の生活拠点だったり、少年院の教官として少年たちを連れて老人ホーム等でボランティア活動をしたり、出院後の社会復帰に向けた勉強を一緒にしにいったり、娘を連れて海岸沿いの砂浜に遊びに出かけたり、ハラコ飯を食べに行ったり等々、思い出深い多賀城、荒浜、そして名取市の閖上(ゆりあげ)が、被災地として常に思い起こされます。
 
 そして、今の季節だと閖上の花火祭りが特に印象的でした。
 地域では有数の花火大会で、観光バスが乗り付けたり、多くの市民が集まったり、その花火も見事でしたが、川沿いの古い町並みと、仙台市に通勤するベットタウン的な道路沿いの新しい閑静な住宅街等の、街あげての雰囲気作りが印象的でした。

 震災では、その逆流した川沿いの家々は言うまでもなく、地域一体が全て津波に飲み込まれました。
 写真は、今回とっさに撮った「現在の」閖上です。
 復興が進んでいるとか、進んでいないとかを言いたいわけではありません。

 とにかく、名取駅のタクシー乗り場で「被災地を見たいんです。」と、ストレートに切り出してよかったと思います。あとは、予算と時間の相談だけ。改めて来て良かったと痛感しました。
 名取駅の駅前に降り立つと、全く普通の生活が目の前で営まれており、自分自身も名取駅には震災直後に行ったことはなく、行ったのは震災前以来だったので、一瞬、その5、6年前と今日の映像が直接つながり、その間に起きた震災の記憶が吹き飛んで、その一言を言い出すのにためらいを覚えました。「被災云々はもう場違いかな?」と感じました。だからこそ、言えて良かった。

 この地域の増田中学校で2,3か月にわたり避難生活を経験された方に、40分から50分程度だけ、一対一でお話を聴く機会が得られました。
 当時、眼前で津波にのみ込まれた人々、避難所で低体温症で倒れた老人、避難所で禁止されていた飲酒におぼれ、乱暴な言動を繰り返した大人、避難所で流行したインフルエンザ、わがままを言わない・言えない震災孤児等々、辛い話ばかりでした。

 帰路で見かけた五叉路のコンビニ。海に遊びに行く行楽客や花火大会のお客で、夏には常にすさまじい盛況を見せていたコンビニが閉店したまま、廃墟となってました。あそこは幽霊の噂が絶たないと、タクシーの運転手さんが説明してくれました。驚いたのは、真面目そうな運転手さんが「私も(幽霊を)見たんですけどね。」と、さらっと言ってました(「ええっ?!」)。

 運転手さんに「今通った、国道4号線って、前と違って、何気に地面が盛りがってませんか。」と聞くと、「よく分かりましたね。皆、慣れてるのか気付かないのか、震災で道路の真ん中が盛り上がったのに、いちいち直せないんですよ。だから、線をまっすぐ引けない…」と。
 そして、駅に戻ると、単なるタクシーのお客に対しては余りにも過分な御礼を繰り返し述べられてました。

 いきなり閖上とは直接関係ない話かもしれませんが、今回、私は仙台で様々なつながりの同志と会えました。
 もっとたくさんの同志と会いたかったのですが、時間があまりにも限られてました。
 「絆」という言葉は何かあまり好きではなかったのですが、自分が立場を変えて仙台で再会し、「同志の絆」こそが人生においてかけがえのない宝であることを、肌身で感じました。

 で、話は戻りますが、今後もやれることをやっていく。自分の身の回りで手いっぱいで、被災地を常に考えることはできないけど、縁に触れた際には真摯に考える。
 東北に限らず、震災に関わった者は、自らがその縁となっていく使命と責任がある。その相手が、隣人なのか、次の世代なのか。いずれにせよ、大事なのは相手に「テーマ」を押し付けることではなく、縁となっていく覚悟を自分が持てるかどうか。
 そんなことを考える機会となりました。

候補①

候補② 候補③ 候補④

3.11に想う(2)

東日本大震災が起きたあの時、私は仙台市に在住し勤務していました。私の記憶では、携帯電話はすぐに使えなくなったと思います。
初動対応中でテンテコ舞いの最中、廊下に出たほんの一瞬のタイミング。アテにしていなかった私の携帯が鳴りました。
「あれ?つながってる?」
携帯電話がつながっていることに驚いたのを、今でもハッキリ覚えています。
「桜井君、大丈夫か?生きてるかぁ?」
遠く離れた地から電話を掛けてきてくれた、懐かしい関西弁の人は、法務委員会の委員長をされた公明党の山下栄一・元参議院議員でした。法務委員長と法務省矯正局少年矯正課職員としての関係?、私にとっては世界史の先生?不思議な関係です。
家族のことは分かりませんが、とりあえず私とこの建物は大丈夫です、連絡ありがとうございます、とだけ手短に伝えた山下元議員との会話が終わって、すぐに私の携帯電話はまたもや不通になりました。充電の不備も重なって、使えない日がしばらく続きました。
だからこそ、この千載一隅のタイミングで掛けていただいた山下元議員に感謝するとともに、その一念のすさまじさに震えました。
他にも電話をしてくれた方がいたと思いますし、被災云々以前に、同じタイミングで一斉に掛けるから、回線がパンクするんだという意見も当然ありです。
ただ、自分からは妻や実家にも連絡できなかった状況下で、たった1人でも自分の安否を報告できたことが、その後の体育館等での活動に専念する上で、かなり大切なことだった気がします。
ありきたりですが、改めて安否確認の方法を決めておくことの大切さを思い出すとともに、危機場面での公明党の在り方、教育の在り方を考えさせられました。
ちなみに、山下先生は法律畑でなく、教員出身の法務委員長という独特の視点から、少年矯正、特に医療少年院の教育・医療体制に強い関心を持って御支援いただいたのみならず、少年鑑別所にとっても、育成的処遇通知の発出前から観護処遇だけのために、わざわざ現場に足を運んでいただいた稀有な方でした。この場を借りて、改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。(写真は、震災前年に仙台駅で再会したときのものです。)
(多分?(2)で終わりです)
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3.11に想う(1)

4年経ったということで。
悲しく重い、いろんな出来事がのしかかるわけですが、
ありがたいことや、今の支えになっていることも、考えられないくらいたくさんあります。
特に自分は家族を失ったり、自宅が流されたりしたわけではないので、悼みや苛立ち等々のごちゃまぜな気持ちを語ることは不謹慎だという印象を持ってましたが…でも、特に感謝の気持ちをことさら黙っているのも変かと、昨年から思うようになってきました。
特に、娘が当時まだ2歳前ということもあり、本当に多くの方々に支えられました。
あの物資に困ったさなかに、「(秋田、青森、岩手の)親戚から送ってきたから、おすそ分けだよ」と互いに声を掛け、そして御近所で分かち合う。このパターンの多さに驚き、東北地方での親族ネットワークのすごさと、東北の方々の優しさに圧倒されました。
私が困っていると、こっそりとガソリン券まで譲ってくれた方もいました。
この写真は仙台在住当時、近所の通り道から撮った日常の光景です(震災前年)。なんだこの鳥の群れ、普通にいるのってスゲぇって、楽しくて撮りました。そして、ここにも津波は押し寄せました。
いつもながら長文・駄文ですが、(2)で感謝だけ書いて終わります。