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稲毛区 櫻井秀夫
hsakurai2016@yahoo.co.jp

憲法記念日に「安保法制」論議を問う(無論長文!)

 今年で69回目を迎えた憲法記念日。
 本年の憲法記念日は、九州・熊本震災に対する募金活動への協力真っ只中でしたので、街頭では例年行う憲法に関する演説よりも募金活動への協力を優先し、憲法についての主張、所感?は、ここ自らのホームページで述べさせていただきます。

 まず最初にはっきりさせるべきは、憲法に対する自分の立場です。
 日本国憲法の3原則である「国民主権」、「恒久平和主義」、「基本的人権の尊重」は、現在の人類の英知による普遍的原理であり、今後守るだけでなく、この精神を具現化した社会の構築を目指さなければならないと考えます。
 そのために、様々な分野の政策はこれらの原則に則って、具体的に進めていくべきです。国家間の安全保障はそのための国家間の仕組みであり、手段の一つであって、目的ではありません。それは「人間の安全保障」を全うするための一つの領域です。
 ですから、憲法改正について「護憲」か「改憲」かという二者択一に単純化する議論自体に反対ですし、そのような議論が「人間の安全保障」に対応できるとは思えません。「人間の安全保障」というと仰々しいのですが、要は現在の社会や、人間が生きている多様な問題に寄与仕切れているとは到底思えないということです。その意味で「護憲vs改憲」は明らかに55年体制の残骸です。

 このように書くと、すぐに「改憲」というレッテルだけを張りたがる風潮がありますが、公明党の主張は一貫して「加憲」です。
 上記3原則を絶対に守り、その上で、西欧のような環境権やプライヴァシー権等を加えていくという立場です。

 個人的には、その他にも明らかに解釈改憲によって行われている内閣による衆議院の解散権や私立学校への公費助成、同性婚等々、憲法について議論しなければならないことはたくさんあるはずです(それらを禁止せよという意味ではなく、現行憲法に基づけば行えないはずのそれらのことを、解釈で行っている現状を検討すべきという意味です。これらの現状はいわゆる「解釈改憲」です。)。そのためにも、冷静かつ粘り強く、掛けるべき時間をしっかり掛けて議論をすることが必要だと考えます。

 以上、総括的に述べましたが、以下は現在の憲法論議に対する私的な見解です。
 何と言っても、最近の憲法談義ということでは、自分として最もホットに感じる平和安全法制を「違憲」とする議論について触れないわけにはいきません。

 私のご近所には大学が多いせいか、30代、40代の若手研究者の方々と密かに接する機会を頂いておりますが、それ以上の年代、なかんずく年配の研究者の方々とで、今回の平和安全法制への評価、特に「違憲」とする議論そのものへの評価が分かれている印象を受けています。
 若手研究者には、先輩たちの議論の組み立て方にかなり疑問を持っていらっしゃる方が結構いる印象です。
 というのも、研究者としてその専門的分析から積み上げた議論よりも、自らの政治的態度の表明が先行してしまっていることに、若手の研究者の方々は違和感を持っていらっしゃるようです。

 以下、直接お話をした研究者の方ではありませんが、そのような問題意識から貴重な御意見を紹介したいと思いました。
 たとえば井上武史・九州大学准教授は、政権行為や政策について「立憲主義に反する」という用法自体が、まったく憲法学では了解されておらず、外国語でも説明できないことを指摘しています。私も、個別政策を評価する概念として「立憲主義」が有効なのか甚だ疑問です。(私が好んで読む木村草太准教授によれば、立憲主義とは「権利保障と権力分立を内容とする公示された法典を制定し、国家権力を統制すべきだ、という原理」としていますが、近現代の法体系を理解するうえで極めて当たり前の話で、この用語を用いて個別政策の何を非難しているのかは、おそらく使用されている方々の理解もバラバラではないかという気がします。)
 また、井上准教授は、政府に憲法の解釈権を認めながら、その見解の変更を政府に認めないというのは理論的根拠がなく、法理論を超えた「ある種の政治的な意味合い」が込められているとしています。

 このような井上准教授の主張は、雑誌「第三文明 6月号」やネット上でも確認できますが、ここでは雑誌に載っていない以下のことだけ付言しておきたいと思います。
 それは内容ではなく、言論の状況で、昨年夏の朝日新聞による憲法学者に対するあの緊急アンケートに対し、既に井上准教授は上述の内容を始めとして(アンケートそのものも含めて)、かなり痛烈に多数意見への反対の立論をしていたにもかかわらず、ほとんど内容を取り上げてもらえなかったり、井上准教授が独自に主張を展開すると、今度はネット上で殺人予告を書き込まれたりした(護憲・平和主義ゆえの殺人?)ということです。
 私の体感では、このような疑問を抱いている若手研究者は決して珍しくなく、そのことに起因する現象は、私とは異なる立場の書籍(小林哲夫著「反安保法制・反原発運動で出現――シニア左翼とは何か 」(朝日新書))でも指摘されていました。つまり、「若手研究者がシニア左翼についてこない」と。
 しかしながら、その書籍ではそのような重要な現象を指摘しているにもかかわらず、その理由を何の根拠もなく勝手に決めつけていました。すなわち、若手研究者が権力からにらまれることを恐れ、出世を求めているからシニア左翼についてこないのだ、というような見方です。私はこの見解に大いに違和感(いや怒りに近いもの?)を感じました。
 このような見方自体が問題で、「上から目線」を優に超えて、既に「独善的」とさえ言えます。

 その独善性は以下の態度と同根です。
 研究者としての専門的分析を駆使せず、自らの政治的態度に疑問を持たずに(「疑う」「自省」というのも重要な学問的態度です。)、熱狂的に表明する。そのようなスタンスに対して、若手研究者としては距離を置きたくなるのも当然なのに、その若手の反応すら気づけない…。それ自体が言論として、かなりやばい状況では…?
 
 しかし、問題はもっと根深いと感じます。
 それは、専門雑誌「自治研究」92巻第2号(平成28年2月号)での藤田宙靖氏(東北大学名誉教授・元最高裁判所判事)による「覚え書きー集団的自衛権の行使容認を巡る違憲論議について」が指摘している問題です。

 藤田教授は行政法を専門とされ、その著書は行政法を学ぶ学生の多くにとって最初に手にする教科書的存在です(という私の勝手な印象です。)。
 その藤田教授は安倍政権に批判的な感情を抱きながらも、憲法学が学問として成立しようとするならば、政治的思いをそのまま違憲の結論に直結させることは、むしろその足元を危うくさせるものであり、法律学の手続きを正確に踏まえた議論がなされるべきで、そのようなやむに已まれぬ思いで筆を執ったと、その執筆動機を述べています。

 そこで提起されている問題は、法規範論理上のルールとして以下のように整理されています。(ボリュームがあり、少々長くなりますが、論旨を順に追っていきます。)
①憲法の条項解釈も法解釈である以上、それが誤っていれば改めるのは当然であり、それが許されないということは、法理論上ありえない。
②あらゆる国家機関は、自らが適用する法の内容についての第一次的判断権を持つ。(内閣法制局は補助機関で、法的拘束力はない。)
③憲法法規の内容について、国家としての最終的判断権は最高裁判所にあり、他の国家機関による法解釈はその意味において「暫定的なもの」である。
(つまり、誤った憲法解釈による法案は、立法府が不成立にさせ、もし成立してしまっても裁判所が無効判断をすることができる、この構造こそが立憲主義の基本構造の一部であるとしています。)(ちなみに、この意味において、「解釈の変更による改憲」(解釈改憲)という言葉は「甚だミスリーディングである」としています。)
 これら藤田教授が提起した理論的枠組みは、立憲主義に反するどころか、立憲主義に忠実でさえあり、この枠組みとの関係では、安倍政権が採った行動には理論的根拠があるとしています。

 一方、藤田教授はこの枠組みにおける違憲論の立場からの整理も試みています。
 上記①について、「憲法によって縛られる政府が、自らの手によって従来の憲法解釈を変更するのは、立憲主義に反する」という理屈は、専門的立場からはあまりにも粗雑であるとしています。
 そこでは、法律ではなく、通達を変更するだけで税を重くする行政のやり方を例にして、その課税が納税者の信頼を得ているという論理をいかにして保っているかを検討しています。
 それを参考にすると、憲法解釈の変更が可能であることを明確に認めたうえで、どのような場合は例外なのかを、詳細に詰めるべきとしています。つまり、変更してはいけない箇所や範囲はどこなのかを、専門的に議論しておく必要があるということでしょうか。(自衛隊の存在自体を違憲とする論者には、この作業は不可能だと思います。)
 
 この観点において、憲法9条の議論については「法的安定性」が最も重要な論拠とされていたとして、それでは、その安定性とは、だれに対する如何なる意味での法的安定性の保護なのかを明確にし、国家機関が「より正しい解釈」に改めようとすることさえも制約できる「法的安定性」とは、具体的に如何なる要請なのかを明らかにすべきとしています。

 この「従前の政府解釈」との法的安定性について、以下の理解の仕方があるとしています。
 (1)現在、将来の国民・諸外国への約束には不可変更効果が生じるという考えについては、通常、裁判の判決のような特別の任務しか該当せず、裁判さえも判例変更の道が開かれている。
 (2)内閣法制局長OB達が口にしていたように、長期間承認された解釈は単なる解釈ではなく、それ自体が一定の社会秩序を形成するという考えについては、前提となる状況が変化した場合に「法的安定性の確保」と、「より正しい(と考えられる)憲法解釈に政府が従う義務」との間の理論上の優先順位は決まっていないとしています。
 そして、「従来の解釈」が「規範」にまでなっているという考えについては、それが直ちに憲法9条の「内容そのもの」とするには、理論的な根拠が不足しており、司法の判断もなされていないことを挙げたうえで、それは通達のように「内部ルール化されたもの」と考えるべきで、憲法規定の意味するところのそのものという論理(それ故に、それに反する新たな解釈は憲法への破壊行為)にはなり得ないとしています。
 (3)解釈の変更自体は否定しないが、「従来の解釈」こそが現在でも内容的に正しく、政府による「新解釈」は誤りという立場も、元内閣法制局長の中にはいますが、それは実体的判断が既に前提になっているとしています。(つまり、論点先取りでと言える論法で、本来、この立場では、「現在の状況で正しい解釈はどちらか」という議論をするべきなのに、その作業の前に「従来の解釈が正しい」と先に判断してしまっている論法です。)
  
 これら3点にわたり①について検討しましたが、藤田教授はこれらを、従来の解釈が正しい解釈であるとの「推定が働く」という趣旨の主張であると、まとめられています。

 上述②の「あらゆる国家機関は、自らが適用する法の内容についての第一次的判断権を持つ。(内閣法制局は補助機関で、法的拘束力はない。)」
 と、
 上述③の「憲法法規の内容について、国家としての最終的判断権は最高裁判所にあり、他の国家機関による法解釈はその意味において「暫定的なもの」である。」については、以下のように論点を整理されています。
 (1)この②③の問題の根源は、我が国の裁判制度では抽象的違憲審査が認められておらず、今回の法制の違憲性を司法が判断する可能性は極めて限られており、それ故に、内閣の補助機関に過ぎない内閣法制局が事実上の護憲の最後の砦であったり、憲法の番人・守護神として機能せざるを得ない現実があるということを問題提起されています。
 ここでは、藤田教授は、憲法の解釈変更における内閣と法制局と最高裁との関係を法的に規定することを提案されています。
 (2)憲法改正手続きを経ずに、今回の閣議決定という形式による変更を「権限の濫用」であるとして違憲・違法とする主張については、「従来の法規の「解釈・運用」によってことを済ませるという行政手法は、決して珍しいものではない。そしてその全てを「違法」であると決めつけることは、法解釈の余地には幅があるということにも鑑みるならば、殆ど不可能であると言わざるを得ない。」としており、例としても現行憲法下での自衛権や自衛隊を認めていることは、まさにこの種の「現行規定の解釈・運用」であるとしています。
  つまり、確かに「濫用」は一般的に違法でも、何が「濫用」に当たるかはかなり厳密な議論を要するが、今回の法制を支える憲法解釈については、その「内容」が既存の法制度の解釈・運用の範囲内かどうかが問題となるとしています。したがって、閣議決定という決定過程の選択自体が「濫用」であると断ずるのは、専門的には粗雑すぎると言えます。
 このように議論を追っていくと、法制の内容自体が憲法解釈として正しいか否かという実体法上の問題に行き着くとし、最後に、政府の今回の憲法解釈の「変更」とは理論的にどのような内容なのかを正確に把握する必要があるとしています。

 それについて、3通りの整理がされています。
(1)「旧解釈の否定プラス新解釈による置き換え」
    ただし、否定は憲法9条の解釈そのもの
(2)「旧解釈の否定プラス新解釈による置き換え」
    ただし、否定の根拠は「状況の変化」
(3)「旧解釈の修正」
    これは「憲法の内容についての新解釈」ではなく、
       「憲法の内容についての解釈についての新解釈」
 このように挙げられ、公明党と自民党との合意も、内閣法制局の理解も(3)の理解に立っていたとしています。
 それにもかかわらず、このような区別をすることもなく、雑然と議論されてきたことが問題であり、法律学者の求められるのは、これらの論点を明確にして理論的に詰めていく作業としています。

 そこで藤田教授は
(1)については、自民党が中心となって主張した、集団的自衛権の行使を最高裁の砂川判決に理論的根拠を求める主張について、判例解釈の初歩的誤りを犯しているとして「全く的外れの議論」として否定しています。

(2)については、国際的安保環境の変化により「旧解釈」が「誤っている」とまで言えるほどの現状不適格のものか否かを検討すべきだが、国会審議等の与党の説明では十分に説得的な説明ができていないと指摘するとともに、その一方で、この点については基本的に国際政治論の分野の問題であり、法律学の分野で判断の適否が可能なのかという疑念を呈されています。少なくとも、「判断過程のコントロール」という視角から、現在の議論よりもかなり精緻な議論を要するとされています。

(3)については、与党が依って立っているのはこの(3)であることから、究極的に重要な問題として扱っています。
 要は、今回の「新解釈」が、「旧解釈」の枠組みを大きく踏み越えるものでは本当にないのか否か、基本的枠組みを残した上での部分的修正にしか本当に過ぎないのか否かであると。

 この点を判断するに当たって、藤田教授は自衛権発動の旧3要件をもとに検討し、そこに賛否の対立を見ています。
 つまり、今回の政府の主張は、これまでの要件の基本を変えることなく、自衛の措置における必要最小限度(要件3)として集団的自衛権の一部行使を容認するというものとして、旧解釈との「量的な連続性」と藤田教授は位置づけ、その一方で、今回の法制に反対する側は要件1の「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に厳格に限られるとし、「そこに1ミリたりとも例外を求められないという考え方を前提」とする「質的連続性」がなければならない立場との、両者の判断基準が異なることを明らかにしています。

 ただし、藤田教授は重要なことをそこで付言しています。少し長くなりますが、誤解を避けるため直接引用します。
 「ただここでもう一つ看過してならないのは、上記に見た通り、政府・与党の「新解釈」も、憲法九条の下、集団的自衛権の行使は許されないという原則を否定しているわけではなく、ごく限られた例外のケースにおいては、その可能性も排除されるわけではない、という論理に立っていることであって、これを、およそ理論的に「質的な連続性」を欠くものと決め付け得るか否かという問題は、なお残されているように思われる。」と、反対論者に対して杭を刺しています。

 この賛否の両者には大きな性質上の違いがあり、それは国際法上の権利としての集団的自衛権が考察の出発点となる以上、その違いは否定できないとしつつも、このような理解の下では、(実際上の)問題提起に対して「非常に微妙な問題となることを否定できない」としています。
 その提起とは、「自国に対する直接の武力攻撃は無いが、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃がなされていて、それが実質自国に対する武力攻撃と同じ意味を持つような場合」や「自国に対する武力攻撃が引き続き起こることが確実であるような場合に行われる武力行使」についてどう考えるかです。
 
 このような状況下でも、「集団的自衛権行使違憲説」を徹底すれば、武力行使は認められないという考え方になりますが、藤田教授は以下の2点について留保を求めています。
 一つには、「先制攻撃」と何か、という解釈問題。
 二つには、「一般に法解釈論上、ある原則について、およそ例外は何時如何なる場合においても一切認められないという硬直性」はむしろ稀有であること。
 (注:ちなみに、「先制攻撃」の解釈問題がここで出ることについては唐突に感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、私は慧眼だと思いました。
 なぜならば、このような事態において国内の米軍基地や周辺警備の同盟国を防衛する自衛隊の武力行使は、それを個別的自衛権のみで説明しようとすると、理論上は「永遠に先制攻撃」と位置付けかねられない(と桜井は考えています)ので、日本の専守防衛という独特の論理において、「先制攻撃」とは何かを明らかにすることは、極めて本質的な問題であると考えられます。)

 なお、この事態において、藤田教授は「公明党は、例外を認めるための要件を「厳しく限定」するという形で、「旧解釈の修正」を図ったが、一般的に言えば、こういった法解釈論のスタイルも、あり得ない訳ではない。」と評した上で、元内閣法制局長官の大森政輔氏の言葉を借りて、新3要件を素直に読めば、それが非常に狭く限定的な事態にしか認められていないことが読み取れるとしています。
 (それでも、疑念を抱かせる国会答弁等を含めた立法事実の何を重視するかという解釈の方法論によっては、新3要件がその実質においては機能しないのでは、との問題が残ることも指摘されています。)

 違憲・合憲の見解については、単なる個人的な政治的立場や怒りの表明ではなく、「専門的な」見解とはこれらの観点からの厳密な分析を経ることによって初めて可能になるとして、「憲法学は、その何に答え何に答えていないのかについての整理をする作業だけは、少なくとも法律学者の誰かがしておかなければならない。」との、已むに已まれぬ思いから藤田教授は筆を執ったとのことです。
 その内容は、政権与党にとっても耳の痛い内容も含まれていますが、ためにする批判ではなく、賛否を超えた真摯な議論には誠実に向き合いたいと思いました。後世にとっても、賛否以上に大切なのは議論の質であると思います。

 今回、私自身は藤田教授の論考をなぞるだけで、発展的な議論をするだけの力量が自分には備わっていないことも痛感し、今後も研鑽をし続けることの必要性も感じました。(それでも、今回、私ごときが分不相応のこのような重い作業を行ったのは、これだけ重要な論考なのに、殆ど報道機関から取り上げられていないのではないか?!という私なりの已むに已まれぬ心情からでした。)

 最後に、この藤田教授の平和安全法制に関する論考が、畑の違う「自治研究」という雑誌に掲載されたという不自然な現象について付言する必要があります。
 当初は日本法律家協会の機関誌「法の支配」誌上への掲載を藤田教授は希望されていたようですが、編集委員会では「学問的に優れたものである」との評価がなされながらも、しばらく掲載できないという判断が下されたことを明かされています。そして、政治的な興奮状態が収まる時期と、思いを正確に伝える場所を模索していたとのことでした。
 
 今回の平和安全法制制定の過程が明らかにしたのは、防衛体制を整備する必要性もさることながら、憲法に関する議論がすぐに神学論争に陥り、自由な議論さえもままならない日本の言論状況でした。しかも、それがよりによって「法の支配」という名前の機関誌で起きた出来事でした。最初の井上准教授に対する脅迫も同様ですが、時の政権云々などという時間経過で変化するレベルではなく、またそのような19世紀的な古い権力観からは理解できない次元、もっと根深く、人間一人一人に巣食う微視的な権力の作用を感じます。平和を享受するだけでなく、平和を創出することは、そのような人間の深層にまで光を当てる考察が必要であると感じます。

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