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稲毛区 櫻井秀夫
hsakurai2016@yahoo.co.jp

治安や安全に関する「国民の理解」

 ある方のFBで「国民の理解」について言及されていて、刺激されました。
 確かに、どのマスコミの調査でも、安保法制に対する国民の理解は進んでいない、説明が十分でない、必要性はある程度認めても「今」採決しなくていい、という論調はかなり多かった印象です。
 議員の対場からは、丁寧に説明して理解を求める、というのは大前提で、そこに悲観的な認識を持つこと自体が危険です。
 しかしながら、「国民の理解」、なかんずく「治安や安全に関する国民の理解」とはどういうものか、自分が国の治安に関わる公安職を経験したこともあり、想うところありです。
 結論を先取りすると、あくまでも一般論ですが、「治安や安全に関する国民の理解」というのは、「被害が生じてから理解が進む」というシビアな側面があるということです。
 逆に言うと、「被害が生じないと、理解が進まない」という恐ろしい側面とも言えます。
 私の前職で関わりのあった少年法の厳罰化、危険(脱法)ドラッグの取締り、飲酒運転の厳罰化…そういう側面が当てはまるのでは?(その理解が「正しい」かどうかは、ここでは別です。)

 誤解されると困るのは、「被害が起きてからでないと理解できないくらい、国民は愚か」という話では決してなく、「法というは現実の後追いである」、いわゆる「いたちごっこ」という、法学部であれば学部時代に誰しもが聞いてきた、法の社会的性質に関する当たり前の話で、治安や安全については、特にそういう傾向が強いのでは?ということです。
  
 これが、最近の話だと、ドローンの規制くらいのレベルだと、まだ被害は限られるのですが、国際関係における安全保障体制や、あの原子力発電くらいのレベルの話になると、さすがに「被害が起きなければ分からないよ」「当たり前」「しょうがない」では済まされず、その性質から考え直さなければならないと感じます。
 特にこの視点から気を付けたいと思うのは、安保法制賛成派の私が言うと変に聞こえるかも知れませんが、逆に、ひとたび極端な事例が発生すると、今度は古典的な社会学で言うところの「集合沸騰」が起き、冷静な議論を欠いて、全てをその極端な事例にはてはめようとする世論が席巻しがちだということです。
 その意味で、これまで刑事政策に関連する立法、法改正について、「国民の理解」すなわち世論の後押しで、急遽なされた議員立法に対しては、私は懐疑的に見ていました。

 「国民の理解」を不断に求める作業は議員として当然のことですが、事の性質として、賛否以前に
「被害が起きる前に、冷静な理解を進めなければ」という想いです。

 まとめると、以下の感じでしょうか。
「専門的には必要性が指摘されていたのに、被害が実際に起きるまで、世論の後押しがないことを理由に準備をしないこと」や、

逆に、
「準備しなかったために、ひとたび被害の兆しが見えると、冷静さを欠いて、個人や国民の権利、そしてこれまでの経緯、これらをないがしろにするような議論が、世論の後押しを理由に、一気に加速してしまうこと」

以上のことを、私は恐れています。

 つまり、「国民の理解」がないことをもって、その立法の正当性がないとするのは、やや一面的であると同時に、特に「治安や安全に関する国民の理解」については、その「国民の理解」の有無を基準にしてしまうと、両極端に議論が振れやすく、それによって生じる高いリスクを抱えることになるということです。

 そのためにも、今後も私は、地道で、冷静な議論を、各現場で積み重ねていこうと思っています。
 そのために、これからも各現場へ走り回ろうと思っています。

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