被害軽減へ政府挙げて周知徹底を
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新しい津波警報
津波による犠牲者を大きく減らす警報になることを願わずにはいられない。
東日本大震災の教訓を踏まえ、気象庁が新しい津波警報の運用を開始した。
大震災では高さ10メートルを超える大津波が襲来したが、地震発生直後の津波警報では予想される津波の高さが「3メートル」などと、実際を大きく下回る数値で発表された。この数値を知って「防潮堤があるから大丈夫」などと判断し、逃げ遅れた人もいた。また、その後の津波情報で第1波の津波の高さが「20センチ」などと発表されたことも、誤解を招いた。
避難を促すための情報発信が、かえって避難をためらわせてしまい、結果的に多くの犠牲者を出す事態になったことは、やりきれない思いだ。
こうした悲劇を二度と繰り返さないために、新しい津波警報では、地震の規模がマグニチュード(M)8を超える巨大地震の場合、予想される津波の高さを数値ではなく、「巨大」「高い」という表現で発表し、非常事態であることを伝えるように改めた。
観測された津波の高さも、その後に高い津波が来る恐れがある場合には、「観測中」と発表することになった。
危険が迫っていることを分かりやすく伝えることが最優先だ。政府は津波の犠牲者を減らすために、国民への周知徹底を急ぐべきである。
「巨大」の津波警報が発表されれば、津波の高さは10メートルを超える可能性もある。直ちに“より高い場所”へ避難することが重要だ。また、津波の高さが「観測中」と発表された場合には、「これから高い津波が来る」と受け止めなければならない。
もちろん、海の近くで大きな揺れを感じたら、津波警報が発表されなくても、すぐに逃げるのが賢明だ。地震による停電などで、情報が伝わらないこともある。一人一人が日頃から意識して、「いざ」というときに備えたい。
一方、総務省消防庁の報告書(11日発表)に掲載された市町村アンケートでは、津波被害が想定される全国の市町村のうち、大震災を踏まえて津波避難計画を策定・修正した自治体は全体の1割強(昨年10月1日時点)しかないという実態だ。検討中の自治体も多いが、あまりにも遅すぎるのではないか。
近い将来の発生が懸念されている南海トラフ巨大地震では、震源域が陸に近いために津波が到達するまでの時間が短いと予測されている。
被害を最小限に抑えるために、あらゆる対策を急ピッチで進めていきたい。
現場主義に徹し課題の解決を
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「震災三年目の冬を希望持って迎えるために」―。6日、自民、公明の与党両党が政府に提出した緊急提言はこう題された。
ここには、公明党の国会議員や地元議員が徹底して現場に入ってくみ取った要望に何としてでも応え、復興を加速させてみせるとの強い意志がこもっている。
振り返れば、大震災後に最初に迎えた冬は、民主党政権の稚拙な対応で遅れた復興関連予算が執行され始めた段階だった。
そして、いま明けようとしている二年目の冬は、応急復旧が終わり、ようやく本格復興に向けたまちづくりに一歩を踏み出したところといえよう。
政府は、今後の見通しをきちんと示し、被災者が街の将来像と重ねて、自らの住宅、生活再建を進めていけるようにしなければならない。
約8カ月後の三度目の冬の到来を見据えれば、これ以上の遅滞は一切許されないとの覚悟で進めてもらいたい。
そのためには、復興が進む過程で生じる用地の取得での権利問題やマンパワー不足、資材の不足・高騰など、被災地特有の課題に迅速に対応することが欠かせない。なぜなら、現場主義に徹した対応なくして、現実のまちづくりが目に見える形で進むことはないからだ。
特に、集団移転や住宅の再建には、土地の整理が必要であるが、そこには複雑な権利関係が絡んでいる。その上、所有者が不明なままの土地も数多い。埋蔵文化財調査の必要に迫られることもある。これらの課題を平時と同じに対応していれば、隘路にはまってしまうことは目に見えている。
そこで、提言は、これらの事情を踏まえた柔軟な対処や手続きの簡素化、調査の迅速化などを求めている。
その上で、「法改正を視野に入れつつ」と踏み込んで、制度の大胆な活用を強調している。
人材、資材不足も深刻だ。あらゆる政策を動員して、この不足を埋めていかない限り、計画があっても現実の復興は加速しない。
さらに、福島の再生には、除染から中間貯蔵施設の整備などを一体とした総合的な工程を明らかにするとともに、帰還困難区域の将来像をしっかりと指し示す必要がある。
政府には、この提言の思いをしっかりと受け止めてもらい、あくまで現場を起点に、さまざまな課題をあらゆる政策の活用で乗り越え、復興を加速させる取り組みを求めたい。
『新シリーズとして ”徹人28人” と題して、各界の徹して生きてきた人を28人紹介したいと思います。なお、あくまで私の主観に基づいてますのでお許し下さい。』
ピエール=オーギュスト(オギュスト)・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir発音例、1841年2月25日 – 1919年12月3日)は、フランスの印象派の画家である。後期から作風に変化が現れ始めたので、まれにポスト印象派の画家とされることもある。
風景画、花などの静物画もあるが、代表作の多くは人物画である。初期にはアングル、ドラクロワなどの影響を受け、モネらの印象主義のグループに加わるが、後年は古典絵画の研究を通じて画風に変化が見られ、晩年は豊満な裸婦像などの人物画に独自の境地を拓いた。日本など、フランス国外でも人気の高い画家である。
長男のピエールは俳優、次男のジャンは有名な映画監督である。
ルノワールは1841年2月25日、フランス中南部のリモージュにて生まれる。7人兄弟の6番目であったが、上の2人は早世し、他に兄2人、姉1人、弟1人がいた。父は仕立屋、母はお針子であった。3歳の時、一家でパリに移住し、ルーヴル美術館に近い都心に住む。
幼いころから画才を示していたが、美声でもあったルノワールは1850年頃に9歳前後で作曲家のシャルル・グノーが率いるサン・トゥスタッシュ教会の聖歌隊に入り、グノーから声楽を学んだ。ルノワールの歌手としての才能を高く評価したグノーはルノワールの両親にルノワールをオペラ座の合唱団に入れることを提案したが、同時期に父親の知人からルノワールを磁器工場の徒弟として雇いたいという申し出が父親にあったことや、ルノワール自身が磁器工場での仕事を希望したため、両親及びルノワール自身がグノーの提案を断り、聖歌隊も辞めた。
1854年、13歳で磁器工場に入り、磁器の絵付職人の見習いとなるが、産業革命や機械化の影響は伝統的な磁器絵付けの世界にも影響し、1858年に職人としての仕事を失うこととなったルノワールは画家を目指した。1862年にはエコール・デ・ボザール(官立美術学校)に入学。並行して1861年からはシャルル・グレールのアトリエ(画塾)に入り、ここでモネ、シスレー、バジール(フランス語版)ら、後の印象派の画家たちと知り合っている。画塾で制作中のルノワールに師のグレールが「君は自分の楽しみのために絵を描いているようだね」と言ったところ、ルノワールが「楽しくなかったら絵なんか描きませんよ」と答えたというエピソードは著名である。
1864年には『踊るエスメラルダ』をサロンに出品し、初入選している。この作品はヴィクトール・ユーゴーの『ノートルダム・ド・パリ』に取材したものだが、後に作者自身によって破棄されたとされ、現存しない。 サロンには1865年にも2点が入選するが、1866・1867の両年は落選するなど、入選と落選を繰り返していた。初期のルノワール作品にはルーベンス、アングル、ドラクロワ、クールベなど、さまざまな画家の影響が指摘されている。この頃の作品としては『ロメーヌ・ラコー嬢の肖像』(1864年)などが現存する。ルノワールの友人であったバジール(フランス語版)は、当時、生活に困窮していたルノワールを、ヴィスコンティ通りにある自分のアトリエに同居させていた。ルノワールはモネとも親しく、1869年にはパリ郊外のラ・グルヌイエールの水浴場でモネとともにイーゼルを並べて制作した。この時彼ら2人が制作した、ほとんど同構図の作品が残っている 。
1868年のサロンには、その前年に制作した『日傘のリーズ』を出品し、入選している。この作品のモデルは当時ルノワールが交際していたリーズ・トレオという女性で、彼女は他にも『夏、習作』(1869年のサロンに出品)、『アルジェの女』(1870年のサロンに出品)などの作品でモデルを務めている。
1870年、普仏戦争が勃発するとルノワールも召集され、ボルドーの第10騎兵隊に配属されるが、赤痢にかかり、翌年3月に除隊している。なお、ルノワールの友人で援助者でもあったバジール(フランス語版)は、普仏戦争に自ら志願し、29歳の若さで戦死した。
除隊後のルノワールは、パリ郊外・アルジャントゥイユのモネ宅をしばしば訪問し、ともに制作した。この頃に、画家で印象派絵画のコレクターでもあるギュスターヴ・カイユボット、画商のデュラン=リュエルなどと知り合っている。1873年12月、モネ、ピサロ、シスレーら、後に「印象派」と呼ばれるグループの画家たちは「芸術家、画家、彫刻家、版画家その他による匿名協会」を結成。ルノワールもそこに名を連ねていた。1874年4月 – 5月にはパリ、キャピュシーヌ大通りの写真家ナダールのアトリエでこのグループの第1回展を開催。これが後に「第1回印象派展」と呼ばれるもので、ルノワールは『桟敷』など7点を出品した。
1876年の第2回印象派展には『ぶらんこ』、『陽光を浴びる裸婦』など15点を出品した。後者は今日ではルノワールの代表作として知られるものだが、裸婦の身体に当たる木漏れ日や影を青や紫の色点で表現した技法が当時の人々には理解されず、「腐った肉のようだ」と酷評された。1877年の第3回印象派展には、前年に完成した大作『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』を含む22点を出品した。印象派展は1886年までに全部で8回開催されたが、ルノワールは1882年の第7回展に25点を出品したものの、第4、5、6、8回展には参加していない。
1878年にはサロンに出品を再開。翌1879年のサロンに出した『シャルパンティエ夫人と子どもたち』は絶賛を浴びた。モデルのシャルパンティエ夫人は出版業者ジョルジュ・シャルパンティエの妻で、同夫人が自邸で催すサロンは評判が高く、ルノワールもこのサロンに出入りして、当時の文化人や芸能人の知己を得た。
1881年には大作『舟遊びの人々の昼食』を完成。この作品の左端に描かれる、帽子をかぶり犬を抱く女性は後にルノワール夫人となるアリーヌ・シャリゴである。アリーヌは『田舎のダンス』(1882 – 1883年)などの作品のモデルとなり、1881年のイタリア旅行にも同行し、1885年には息子ピエールをもうけているが、ルノワールと正式に結婚するのは1890年のことである。
しかし、ルノワールは、1880年代前半頃から、光の効果におぼれ形態を見失った印象派の技法に疑問を持ち始める。1881年のイタリア旅行でラファエッロらの古典に触れてからはこの懐疑はさらに深まった。この時期、特に1883年頃からの作品には新古典派の巨匠アングルの影響が顕著で、明快な形態、硬い輪郭線、冷たい色調が目立つ。
1890年代に入ると、ルノワール本来の暖かい色調が戻り、豊満なヌードを数多く描いた。 1898年頃からリューマチ性疾患に悩まされ、晩年は車椅子で制作を続けた。「指に筆をくくりつけて描いた」という伝説も残されている。1903年からは南仏のカーニュに移り住み、1907年レ・コレットと呼ばれる広大な地所を購入し、この地で死を迎えた。ルノワールの作品総目録(カタログ・レゾネ)は現在編集中だが、4000点は下らないだろうと言われている。
ルノワールは日本にも早くから紹介され、その親しみやすい画風のためか愛好者も多い。また、梅原龍三郎をはじめ多くの画家に直接・間接に影響を与えている。
晩年彼は、しみじみ語ったという。「やっと自分も絵画というものの入口に立てた。」13歳から磁器の絵付職人の見習いとして描き続け、60歳にしての言葉である。絵画の奥の深さと共に、ルノワールの飽くなき徹する姿に喝采を送りたい。