バックナンバー 2010年 12月

 ・明年は日本と言う国の明暗を分けるだろう。急進派の地方分権ブループと分裂寸前の中央集権ブループが激突する。

 私は地方分権を支持するが、あくまでも統率力のある国の指導者が必要だ。国が動くべき時は国がリードし、地方に任せる事は全て任せ、独自性を大切にする。

 明年は、様々な選挙がある。国民はいかに正し見識を見つけ出すか?世論も民意も操作されていることを忘れてはならない!

 ・最近になって、国内外で過去の亡霊が騒ぎ出している。特に日本は手に負えない。平然とマスコミに登場し、出版までして日本の救世主になろうとしている。

 過去に犯した罪を、どの様な大義名分で語っても歴史は変わらない。むしろ進化することを忘れた原始人が、猿に戻っていくようだ。

 日本も独立国家として、核を保有し、武器を輸出せよと唱えている。戦争で亡くなった多くの一般市民・原子爆弾による死者と被曝された方々の断ち切れない連鎖。

 HEIWAの意味は非常に重い。為政者の軽々しい言動を真の国民は見抜かなくては・・・・。

 ・兼ねてより市議会で懸案となっておりました、各種ワクチン接種の公費助成が12月議会で可決されました。全額とはまいりませんが、実費の約2割を自己負担していただく事となります。

 子宮頸ガンに1万3千円(高校1年生)・ヒブに7千円(2ケ月~5歳未満)・肺炎球菌に九千円(2ケ月~5歳未満)の公費助成となります。

 ※ 該当者の方には、個人通知がありますので、是非、ご利用下さい!

 ・信長の性格は複雑怪奇といわれる。その一つに、突き抜けた覇気が上げられる。本来、メンタルなものなのに、彼の場合は、高い身体能力と関係があるのかもしれない。信長は、16歳から18歳にかけて、積極的に武技にその身をおく。その様子は信長広記にも描かれている。

 どの様な武将も天下人にも必ず”親なくして子は生まれない”信長もそうだ。彼は私たちと同じ郷土でうまれ、477年前の愛西市を見たのだ。

 この当時の親子関係は、いかばかりのものか?計りしれない。「義」のために戦い、たとえ親兄弟といえども”大義”の前では死あるのみ。上杉謙信は、”義の為に生き、義の為に死んだ”

 信長はどうだろう?彼の”義”とは?信長の死は何を残したのだろう?」

 ・そもそも始まりは、市民税削減・市長の報酬カット・市議会議員の報酬カットを市民目線での議会改革が本題であったと思う。現市長は個性派である。いい意味では、人の目もマスコミも引き付ける。しかし、自分が正しいと思うことも一方的な対話や議会の納得を得られないままでの議決はあり得ない。

 どうもリコールによる議会解散の署名運動あたりから、日本初の市民税減税が、名古屋市民の為でなく現市長の対面を保つものになりつつある。日本減税党なるものを作り、市議会の過半数をとるつもりなら、全くの独裁者である。

 さいさん確認しなおしたリコールの数は、市長を支持するものではないと思う。良識ある市民の皆さんは市議会の在り方を市民税を含めて、問い直したいのだ。市長は辞職して再任を問うといっている。ムダを省くと称して、知事選・住民投票のトリプル選挙になる。市民を混乱させるだけだ。

 マスコミは情報操作をしている。一般紙もその範ちゅうをでない。”中京都構想”も意味がわからない。地方分権を声高らかに叫んでも、今の国政の状況では、逆に国でやるべき問題を地方に押し付けて頓挫しかねない。地方分権をあせると、日本は小国で終わってしまう・・・・。

 ・移民の多くはカリフォルニアの農場での労働に従事した。低賃金の労働であったが、アメリカで数年働けば、日本で土地が2~3町歩(約1ha)買えたので、日露戦争のころまで移民は続いた。

 勤勉な日本人は、大切な労働力として必要とされカリフォルニアでは日本人のコミュニティーが出来上がった。

 1912年(明治45)、北米愛知県人会が結成され、日本人社会は強固になっていくが、1924年(大正15)には排日移民法が制定され、日本人のアメリカ入国が禁止された。太平洋戦争に入ると、日系人は強制収容所に収容され、全財産を米国政府に没収された。

 近年になって、歴史に対する認識度の違いが指摘されている。日清・日露戦争は、本当に侵略戦争だったのか。世界の動向とアメリカの動き、そして、ソ連に中国。日本の立場は、どうあるべきなのか。歴史はさらに問いかけてくる・・・。 

 

 ・18日、第3回の「信長生誕を育む会」の勉強会が、佐織公民館で行われた。本市の学芸員さんによる”尾州古城志をよむ”と題しての講義であった。

 この”尾州古城志”は佐織資料館に保管されている。私も今までに何度か資料館に行っていたものの、その存在を一度も気にとめた事がなかった。

 実はこの”尾州古城志”にこそ、勝幡城で信長が生誕したことが明記れていたのだ。そこに気がついた学芸員さんの目はすごいと思う。

 しかし、学芸員さんの仕事は市役所の中ではあまり認められていないように思う。今回の『勝幡城 信長誕生説』にからむ勝幡城駅前開発事業を通して、いかに歴史の研究が大切か、歴史の保存が大切か、そして優秀な学芸員をもつことがどれほど市の発展にこうけんするのか、実証したい。私も市政に携わる者の一人として頑張りたい!

・明治時代の愛西市は、濃尾地震や鵜多須切れの洪水等の自然災害や繊維産業の不振にによる経済的な不況にあえいでいた。

 その中で、1881年(明治14)に愛西市二子町出身の山田芳雄氏が、出漁中に難破したが、アメリカ船に助けられてカリフォルニアに渡った。

 山田氏は農園で働いた後、帰国し、親類の縁者をつのり、数人と再び渡米した。彼らが、数年後に大金を故郷に送ったことから、愛西市に渡米ブームが起きた。

 そして、その一人から日本の移民が始まる・・・・。

 ・信長の父、織田信秀は、天正16年9月3日、美濃の国に侵入した。ところが、帰る途中に、美濃国主の山城道三に襲われ、総崩れとなる。さすがの信秀も『まむし』と呼ばれた山城道三(斎藤道三)にはかなわなかったようだ。

 まむし、山城道三は、織田信長よりはるかに”生まれがあやしい”道三の父は仏僧だったが、ある時、美濃国の守護 土岐氏(ときし)の家臣 長井氏に仕えた。ところが、徐々に、軍権を超えて強大化し、のちに守護大名となった。

 父の後を継いだ道三は、この長井氏を倒し、さらに守護 土岐氏も滅ぼし、自ら美濃国の国主にまで上りつめた。いわゆる下剋上(げこくじょう)で、道三が『まむし』と呼ばれた所以(ゆえん)である。このような道三の素性や実績を憂いた織田家は、家臣 平手政秀の発案で、山城道三との縁組を申し出た。こうして、織田信秀の嫡男 信長と、山城道三の息女 濃姫の婚儀が決まったのである。

 この時代の婚儀は、策略であり、自国を守り強大化する、一つの手立てであった。しかし、それも時の運命であり、一つの”縁”であると思う。当時の女性は、いかに心が強大であったか。自らの運命に一国の存亡を背負ったのだ。そして、男はその”究極の愛”を受け止め、自らの命に替えたのだ。愛あればこそ、命は生きる・・・・。

 ・12月の一般質問で『市の歴史と文化の継承を』と題して質問を行った。その中での一番の論点は、勝幡町に住んでいる北津島病院の院長先生が座長で立ち上げられた「信長生誕を育む会」の存在である。この会は、大うつけと言われた信長の不屈の精神を胸に、まったく新しい町づくり”環境都市”を提唱するとともに、信長生誕の地である勝幡城の復元事業に取り組みます。

 信長の生誕には諸説がありましたが、実は本市の学芸員さんが平成4年に執筆された「信長出生考」が、最有力の論文とされています。

 折しも、本市は勝幡駅前開発事業の真っ最中です。この駅前開発には、信長生誕の地を刻印したモニュメントの設置と東屋をつくり、その中に勝幡城の復元模型を置くことが、行政側からの答弁としていだだいています。

 3年後には『信長生誕480年』になります。”天の時”です。勝幡駅前開発という”地の利”もあります。勝幡城祉は土地的には稲沢市になりますが、あとは愛西市と稲沢市の”人の和”で天下統一です。愛西市の活性化・観光化のために、全力で実現に向けて活動を起こしてまいります。

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